【1】不可能性自体は存在を否認された全き他者として実在する。しかし、思考はそれに背を向けて立っている。背を向けて立つことは背教の定位であるアポスターズ(apostase)の定位の様式であるが、それは背後の実在である不可能性自体を虚偽の根拠として隔てて置くこと、離れようとすること、距離化の運動である。
 この距=離(apostase)は未だに動詞的な動態にあって「距離すること」としてある。それはただ離れつつあることとしてしかありえない。つまりまだ離れ切ってもいなければ離れ去ってもいない。
 故に、この距離性は近接性であり切迫性であるというその裏面を密着的に密接に抱え込んでいる。アポスターズは不可能性の距離であり、緊迫であり、接近であり、密着である。そこではまだ分離や切断や離隔は空けられていない。
 これは思考にとっての根本的な危機である。それは隔絶の不可能性だからである。

【2】不可能性自体は思考の背後に密着的に立つ実在である。思考にとって、それは己れの根源的他者性を意味する。この実在は否認されているが無化しえていない。実在の影は思考の手前へと延長してそこに響く。
 この根源的延長である実在の影を〈影響〉(influence)と名づける。

【3】不可能性自体は、それ自体としては(καθ’ αυτο)根本的に実在する。
 しかし、それを思考は背後に置き、己れの虚偽の根拠たらしめている。不可能性の実在は非在である。非在とは、全き他者である不可能性自体の存在様式である。
 しかし、この非在は未だ無化されていない〈無い〉である。非在は単に否認された根本実在であるだけである。だから非在は〈考えられないにもかかわらず全く在る〉ところのものである。それは〈虚偽自体〉であるが、虚偽は真理に先行して根本的に実在してしまっている。むしろ〈虚偽〉とは〈非在〉と共に汚名であって、〈非在〉こそが存在し、そして〈虚偽〉こそが真の真実なのである。

【4】思考は非在に背を向けながら未だ非在から切り離された自己固有の場を持たない。〈場〉ではなく、背教の定位が創り出した原距離であるアポスターズ(apostase)の距離をしか持ち得ないでいる。思考が己れの自己固有の場としなければならないのは、その存在様式である〈存在〉である。しかし、〈存在〉は未だ実在しえていない。〈非在〉が実在するだけである。
 〈存在〉とは〈非在ではないところのもの〉である。
 〈存在〉と〈非在〉のこの区別は、しかし、〈非在とは違って〉とか〈非在とは別様に〉とか〈非在以外の〉とかいうような弱いものであってはならない。〈非在〉が一方に「在る」かぎり、〈存在〉はそれこそがありえない〈不可能なもの〉にされてしまうからである。
 〈存在〉を実在させるためには、〈存在〉は、〈非在などというものは無い〉ところのものであるような〈存在〉でなければならない。それを可能にするのは〈無〉である。したがって、〈非在〉は〈無〉に置き換えねばならない。
 だが、〈無〉は未だ存在していない。