Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 2-5 車輪の下に

ROTA TARO ORAT ATOR

 「……タロットの車輪はアトール、つまりエジプトの母なる天の女神ハトホルを語る。
 ハトホルは月の白い牝牛。エジプトのイオよ。その乳でファラオを養うとされる。
 彼女はまた《フト-ホル》、つまり《ホルスの家》とも言われた。
 エジプトの言葉では《フト》は『家』ないし『神殿』を意味する。
 神殿である彼女の場処でホルスは即位するのよ。
 エジプトの《ルズ》つまり《神の家〔ベテル〕》に当たる言葉ね」

 「ふん、《運命の輪》に纏わる存在は何もホルスだけじゃないさ」
 黒人は言った。
 「車輪は昼と夜、夏と冬の交替も示しているのさ。
 太陽のホルスもいずれ沈む。すると夜のセトが昇ってくる。
 セトはよく《驢馬》で表された。
 ミダス王の驢馬の耳の話もセトに関係がある。
 《王様の耳は驢馬の耳》というのは、セトが王であるという意味なのさ。
 それから、ユダヤ人はエジプトのこの邪悪な神セトを象徴する
 《驢馬》を神聖視した。
 イエス・キリストもそうだ。
 彼は驢馬に乗ってイェルサレムに入城している。
 セトは旧約聖書のセツだ。
 いいかい、マドモアゼル、あんたが言ってるそのハトホルっていうのは、
 ユダヤ=キリスト教にとっちゃ、実にけったくそ悪い神なんだぜ。
 セトは驢馬に乗ってホルスの家から逃れ、
 ヘブライ人の先祖になり、神様にまでなったんだ。
 ハッハ、ハトホルが《ホルスの家》なら、
 セトの民にとってそれは脱出するべき《奴隷の家》だった筈だ! 
 ヤハウェ、ヤコブ、イエスは皆、
 《ヤー》という驢馬の鳴き声から生まれたのだ。
 仲の悪い双子イサクとエサウのように、セトとホルスは不倶戴天の敵なのだ。
 ヤハウェはエジプトの死神なのだ! 
 奴がエジプト人にしたことを見れば明らかだ。
 過越のとき、ヤハウェは誠にセトの如く振舞ったんだからな」

 男は不敵な笑みを浮かべた。

 「ヴィスコンティ家のタロットの《運命の輪》のカードには、
 セトを象徴する驢馬耳の男が《レグノ》つまり
 《わたしは支配する》という意味のラテン語の書かれた旗を持って、
 車輪の上にどっしり座っている。
 これから昇ろうとする男は《レグナボ》つまり
 《わたしは支配するだろう》という旗を持っていて驢馬の耳が生え始めている。
 《レグナヴィ》、《わたしは支配した》という旗の男は、
 驢馬の尻尾を生やして落ちぶれてゆく。
 最後の男は、車輪の下だ。
 四つん這いになって重い《運命の輪》を肩に乗せる
 この哀れな四人目の男の旗には
 《サム・シイネ・レグノ》つまり《わたしには法がない》と書かれている。
 このようにセトの驢馬耳は王権の象徴、
 ハッハ、王様の耳は驢馬の耳、という訳さ!」
 
 「そうか、驢馬のミダスはアポロンに対立している存在だ……」
 百目鬼は拳で掌を打った。
 「それで驢馬を聖獣としたキリスト教の黙示録の著者は、アポロンを《底知れぬ穴の天使アバドン》に貶めたのか!」

 「いいことに気付いたな、お若いの」
 黒人はにたりと笑って百目鬼と女を見比べながら言った。

 「触れるものを黄金に変える魔法の指をもったプリギュアの王ミダスは、
 オヴィディウス等には滑稽な人物として描かれているが、
 ふん、もっと後代の練金術師たちのために
 名誉回復してやらねばならん存在だよ。
 黄金というのは俗悪な《金》のことなどではなく、
 《永遠の生命》のことだろう。

 ミダスはトラキアのオルフェウスとアテナイのエウモルポスという
 二人もの大立者からディオニュソスの秘儀を受けていたんだ。

 ディオニュソスの異名には
 よく知られたバッカスの他にもザグレウスというのがある。
 ザグレウスは元々は別の神で
 ミノタウロスで有名なクレタ島で牡牛神として崇拝された。
 ピュタゴラスやプラトン、更にキリスト教にも
 深い影響を与えたオルフェウス教は、
 このザグレウスをディオニュソスと同一視した。

 オルフェウス教の神話では、
 ザグレウスは蛇に化けたゼウスとペルセポネーの子供で、
 ゼウスは世界の支配権をこの世継ザグレウスに委ねようと考えていたという。
 だがギリシャ神話ではお馴染みの嫉妬役ヘラ女神がまたぞろ登場して、
 巨人族タイタンを唆し、ザグレウスを襲わせる。
 ザグレウスはちょうど牡牛に化けていたところをタイタンにとっつかまり、
 その躯を八裂きにされて喰い殺されてしまう。
 ゼウスの怒りは雷となってタイタンを焼き打ちにする。
 その灰から人間は生まれた。
 灰のなかはザグレウス起源のものも混じっていた訳だから、
 人間には神に等しい部分もあるのだと説明される。

 アテナがザグレウスの心臓を救ったのでゼウスがそれを嚥み下す。
 テーバイ王カドモスの娘であったセメレーによって、
 ザグレウスの生まれ変わりであるディオニュソスが生まれたという。
 ディオニュソスの名前は《二度生まれた者》を意味し、
 この死と復活の神話が、
 後代のイエス・キリストの復活物語に影響していったといわれるのさ。

 オーソドックスな神話では、ゼウスの情婦になったセメレーが、
 ヘラを嫉妬して、ヘラを抱くときの姿で抱いてくれと
 ゼウスに馬鹿なお願いをする。
 ゼウスは仕方なく願いを聞き入れるが、
 それは雷霆の姿だったので、セメレーは感電死してしまった。
 とんだ電撃結婚もあったものだ! 

 セメレーは身籠っており、
 ゼウスは母親の焼死体から未熟児ディオニュソスを取り出し、
 自分の太腿を切ってそのなかで彼を養い、産んでやったのだと伝えられる。

 ディオニュソスはこのようにテーバイ王家の血を受け継ぐ神人、
 建設者カドモスの孫で、アクタイオーンやペンテウスの従兄弟に当たる。

 ところが遠い異国の地から、
 この少年ディオニュソスは招かれざる客として帰ってくる。

 ふん、ディオニュソスは恐ろしい奴だよ。
 テーバイ王ペンテウスが嘆いた通り、
 剣にも、槍にも、軍馬にもびくともしなかった
 軍神アレスの子孫たちの偉大な都市テーバイは、
 この素手の少年によって陥落してしまったのだから。

 無論ペンテウスも強情者だ。
 偉大な予言者としてギリシャ全土に名を響かせていた
 全盲の賢者テイレシアスの警告に耳を傾けず、
 テイレシアスを追放、更にこのテイレシアスが予言していた
 《後からくるもっと偉大な預言者》であるディオニュソスをも
 必死で締め出そうとしたのだからな。
 ふん、イエスの場合と同じく、《預言者故郷に入れられず》って訳だ。
 テイレシアスはいってみれば、
 バプテスマのヨハネ役だったという訳かね……。

 だが、ディオニュソスはイエスよりもずっと強引だった。
 テーバイはペンテウスの叫びも空しく、
 ディオニュソスの信者どもの熱狂に飲み干されていった。
 宛ら酒樽をペロリと平らげてしまう酒豪の如く、
 ディオニュソスはテーバイを己れの血の狂宴の赤葡萄酒に変えて嗜み、
 己れの血族の破滅をその酒の肴にしてしまったのだよ。

 ディオニュソスの宗教の感染力は強く、
 王家のなかにまで瞬く間にそのウィルスは侵入した。
 ペンテウスの叔母でアクタイオーンの母であったアウトノエも、
 ペンテウスの妹たちも、また他ならぬ母親アガウェですらも、
 ペンテウスの禁令に従わず、
 キタイロン山のおぞましくも卑猥な祭儀に出掛けて行く。

 祭儀を覗き見していたペンテウスは捕らえられ、
 当時は麻薬と同じ位危険な飲料だった赤葡萄酒にラリったこの女達は、
 わが子、わが兄、わが甥とはもう訳が分からずに、
 恰もその主人を喰い殺したアクタイオーンの猟犬のように、
 ペンテウスに踊りかかり、その躯を素手で八裂きに引き千切って殺した。

 彼らが我に返ったときにはもう遅い。
 この罪に穢れた一族は、建設者カドモス共々、
 テーバイを追放されてしまったのさ! 

 ところで、このようにバッコスの信女たちは、
 当時まだ劇薬でもあった葡萄酒に酔い痴れ、
 裸になり踊り騒ぐこの狂宴のなかで、
 犠牲者の肉体をばらばらに引き千切ったが、
 これは、丁度セトがオシリスを殺して
 その躯をずたずたに寸断したことに対応するものだった。

 引き千切られた犠牲者の肉は、
 血のように赤い葡萄酒と一緒に、
 この祭儀で食用に供されたともいう。
 つまり、ハッハ、人肉嗜喰〔カニバリズム〕さ!」

 黒人は、滔々朗々とうち続いた長口舌の果てに、遂このとき大きな白い歯を百目鬼に剥き出して叫びを上げ、思わず百目鬼がのけ反るとゲラゲラ笑った。