Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 2-4 タラの女神

 さて、女はその美しい緑色の瞳を百目鬼に向けた。

 「……あなたの国、日本は古くからの仏教国でしょう? 王子シッダールタが出た一族が月氏と呼ばれていることはご存じかしら?」

 百目鬼は首を横に振った。

 「そう」
 金髪の娘はにこりと笑った。
 「……インドには太陽の種族といわれたスーリヤヴァンシャに対して、月の種族であるチャンドラヴァンシャという一族がいたのよ。
 シッダールタは悟りを開いて、賢者、つまりインドの言葉でブッダと呼ばれるようになった。
 ブッダの教えから仏教(ブッディズム)が生まれたのだけれど、
 実は《ブッダ》というのはシッダールタの出た月種族〔チャンドラヴァンシャ〕の祖先
 《ブダ》から来た名前であるという言い伝えがあるの。

 ブダの父親はソーマで、そこから月種族チャンドラヴァンシャと呼ばれるようになった。
 母親の名前は《タラ》、実は《ブリハスパティ》、
 祈祷の主・神々の祭官といわれた別の偉い神の妻だった。
 ソーマはラージャスーヤという王者の供犠の祭祀を盛大に執り行ったと伝えられている。
 これは古代インドで王様の即位の式典を意味したというから、
 ソーマは自ら神々の王者となったということよ。

 神話では、こうして慢心したソーマがタラの女神を誘惑し、
 ブリハスパティから略奪したことになっている。

 そこでブリハスパティはブラフマーに哀訴し、
 インドラ神率いるディーヴァの神々がブリハスパティの味方についてソーマに宣戦布告する。

 ソーマは負けじと魔族アスラの軍勢を率い、
 両軍の力は互角となり戦線は膠着する。

 事態が大きくなったことを恐れたタラは、
 ブラフマーの調停を仰ぎ、談判の末、
 ソーマはタラをブリハスパティに返すことを承諾して和平となるのよ。

 ところがタラは既にソーマの子供を宿していた。
 これを察したブリハスパティはタラを家に入れてやらず、冷たくあしらった。

 タラは仕方なく家の外に締め出されたまま、ひとりの男の子を産み落とす。
 その子は……そう、ちょうどこの子のように(女は男の子の頭を撫でた)、
 とても綺麗で賢い子供だった。

 すると、今まで妻にひどい仕打ちをしていたブリハスパティが欲を出して、
 掌を返したように愛想を振り撒き、その子を自分の子供だと主張し出したのよ。

 ところがソーマがそこでまた父親の名乗りを上げたので、
 事態はまたややこしくなったの。

 今度は子供の取り合いで争いになった。

 ソーマとブリハスパティはついにタラに詰め寄り、
 どちらの子供かを問い質すの。

 ところがタラは恥じらって答えようとしない。
 するとタラの息子が口を開いてこう言うの
 ――《お母さん、あなたは罪深い女だ。もしぼくの父親が誰か言わないのなら、
    あなたに呪いをかけてやる》と。」

 「ほう、それは大したもんだ。母親を呪うというのは凄い餓鬼だな」
 黒人が妙なことに感心したように、嘆息を漏らした。
 「で、どうなるんだい?」

 「そこでブラフマーが仲裁役を買って出る。脅しをかけた子供を宥め、怯える女神をいたわるように、本当のことを言うように促すと、やっとタラは子供がソーマの息子であることを白状する。するとソーマは喜んで、息子を抱き締め、《おまえは本当に賢い子だ》と褒めるのよ。こうして母親に呪いの脅しをかけたソーマの息子は《賢者》を意味する《ブダ》の名で呼ばれるようになった」

 「その話は、《ズー》の話に似ているな」黒人が顎を撫でながら言った。

 「《ズー》?」百目鬼が聞き返した。

 「ふん、ズーの外にも、キングーという神の話もそれに似ているな。お嬢さん、不本意ながら、あんたに助け舟を出すことになるが、その思い上がったソーマって奴が、ブリハスパティから奪取した女神《タラ》っていうのは、インド・アーリア語族のとても古い古い女神で、アイルランドにまでその信仰は広がっていたんだ。《タラ(TARA)》はタロット(TAROT)の語源にも関係している。そのタロットには有名な回文があるのを知っているかね? まあ、ちょいとしたアナグラムの言葉遊びで、ローマ(ROMA)が愛(AMOR)の転倒だというような類いのもんだがねえ?」

 男は試すような目で女を促した。

 「これね……」女は枝を取った。
 「第十番目の札《運命の輪》に出てくるという文章、タロットのエジプト起源を暗示しているものよ。ロタ・タロ・オラト・アトール……」