Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 1-8 《神》の名前
女は胸ポケットから黒縁のかなり度の強そうな眼鏡を引っ張り出して顔に掛け、不思議そうに百目鬼と少年のやり取りを眺めている。
眼鏡は余り似合っているとは言えず、折角の美人が台なしだったが、百目鬼は少しほっとした。
やっと落ち着いて眺めることができるようになった娘の顔は、愛嬌があって、却って親しみやすい印象を与える。
「この子は日本人なんだよ」
「あなたも?」
「そう……でも、どうしてこんな処に? 珍しいな。観光客の連れだろうか」
女は顔を顰め、顎を微かに動かして、砂丘の上をぶらぶらしている長身の黒人を示した。
「あの男の連れだそうよ」
「えっ、あいつの?」
百目鬼は唖然として黒人に振り返り、改めてその男をしげしげと眺めやった。
男は若いようにも、かなりの年配のようにも見える。
黒人種でこれほど年齢の分かりにくい人物にお目にかかったことはない。
何ともいえない不思議な風貌をしていた。純粋な黒人種ではないからかもしれない。
こちらを冷ややかに窺うその瞳の色はブルーで、非常に怜悧な印象を与える。
鼻柱は高く、どことなくインド人のようにも見える。
「保護者の癖に、ほったらかしにしてたのよ」女のまだ憤慨を含んだ声が苛立たしげに言った。
「ねえ!」百目鬼は黒人に向かって大声で話しかけた。フランス語はできなかったので、仕方なく英語で。「この子はあなたの連れですか。どうしたんです? 随分、怯えているようだが」
「なーに、気にする必要なんかないんですよ」
黒人は嘲るように言い返した。明瞭なキングスイングリッシュだ。
「子供が変なものに怯えることなんか、よくあることだ。ふん、大方、ムルソーが殺したアラブ人の幽霊でも見たんだろうよ」
成程、ひどいことを言う奴だ。
女があれ程怒って罵るのも当然だ。百目鬼は体が震えるのを感じた。
黒人はバスタオルと男の子の着替えを持ってこちらに近づいてくる。
百目鬼は一発ぶん殴ってやろうと拳を思わず固めた。その時だった。
「No!」
突然、百目鬼の胸の中から顔を起こし、男の子は非常にはっきりした発音と強い、まるで大人が発するような断固とした調子の、だが非常に早口の英語で男に向かって反論し始めたのだった。
「I just saw Choronzon! He isn't a ghost at all! But an ugly merman! It's a devilish monster of the wartery chaotic abyss, confusion and dispersion!」
「今、何て言ったんだ?」百目鬼は女に顔を向けた。
女は暫く呆然としたまま、答えられなかったが、やがて我に返って言った。
「……この子、ちゃんと英語が話せるのね……。よく聞き取れなかったけど……醜くて恐ろしい半魚人の怪物を見たって言ってたわ。……混乱、分散、水の渾沌とした淵……何のことかしら、コロンゾン……コロンゾン、どこかで聞いたような……」
「なーに、その子は頭がいいんですよ」
黒人が近づいてきて白い歯をきらめかせて笑った。
「四カ国語は五歳児並に喋れますよ。英語、日本語、アラビア語、それにわたしが今教えているフランス語もね。尤もフランス語はまだまだド下手だが……」
男は子供の体を拭いてやりながら、今度は何と日本語で百目鬼に話しかけた。
「あんた、新聞記者だろう。昨日の学会で見たよ。ふん、わたしを覚えていないのかね」
「……あなたは誰だ?」百目鬼は警戒して後ずさった。
「何、怪しい者じゃないよ」
男はにやりと笑った。
「こう見えてもわたしは学者だ。この子の友達でもある。なあ、そうだろ、坊や」
男の子はふてくされた様子でバスタオルを黒人から引ったくり、自分で体を拭き始めた。
「やれやれ、気難しい坊っちゃんだ」
黒人は鼻でせせら嗤った。
「……わたしは日本語もできるのでね。この子に自分の名前を漢字で書けるように練習させてたんだ。砂の上での書き取りの訓練さ……さ、坊や、書いてごらん」
男は子供に木の枝を手渡そうとした。だが、男の子は金髪の娘の後ろに隠れてしまった。
「やれやれ、えらく嫌われたもんだな」
黒人は溜め息をついた。
「書いてごらん。簡単なことだろう?」
子供は枝をやっと受け取ったが、砂の上にしゃがみこんだまま、枝先をぴくりとも動かさず、凝っとしているだけだ。
「貸してご覧」黒人は枝を受け取ると、男の子の前に一文字の漢字を書いた。
百目鬼はその文字を見て、やや眉が吊り上がった。
砂の上には《神》と書かれていた。
第二章 神聖秘名 1-8 《神》の名前
女は胸ポケットから黒縁のかなり度の強そうな眼鏡を引っ張り出して顔に掛け、不思議そうに百目鬼と少年のやり取りを眺めている。
眼鏡は余り似合っているとは言えず、折角の美人が台なしだったが、百目鬼は少しほっとした。
やっと落ち着いて眺めることができるようになった娘の顔は、愛嬌があって、却って親しみやすい印象を与える。
「この子は日本人なんだよ」
「あなたも?」
「そう……でも、どうしてこんな処に? 珍しいな。観光客の連れだろうか」
女は顔を顰め、顎を微かに動かして、砂丘の上をぶらぶらしている長身の黒人を示した。
「あの男の連れだそうよ」
「えっ、あいつの?」
百目鬼は唖然として黒人に振り返り、改めてその男をしげしげと眺めやった。
男は若いようにも、かなりの年配のようにも見える。
黒人種でこれほど年齢の分かりにくい人物にお目にかかったことはない。
何ともいえない不思議な風貌をしていた。純粋な黒人種ではないからかもしれない。
こちらを冷ややかに窺うその瞳の色はブルーで、非常に怜悧な印象を与える。
鼻柱は高く、どことなくインド人のようにも見える。
「保護者の癖に、ほったらかしにしてたのよ」女のまだ憤慨を含んだ声が苛立たしげに言った。
「ねえ!」百目鬼は黒人に向かって大声で話しかけた。フランス語はできなかったので、仕方なく英語で。「この子はあなたの連れですか。どうしたんです? 随分、怯えているようだが」
「なーに、気にする必要なんかないんですよ」
黒人は嘲るように言い返した。明瞭なキングスイングリッシュだ。
「子供が変なものに怯えることなんか、よくあることだ。ふん、大方、ムルソーが殺したアラブ人の幽霊でも見たんだろうよ」
成程、ひどいことを言う奴だ。
女があれ程怒って罵るのも当然だ。百目鬼は体が震えるのを感じた。
黒人はバスタオルと男の子の着替えを持ってこちらに近づいてくる。
百目鬼は一発ぶん殴ってやろうと拳を思わず固めた。その時だった。
「No!」
突然、百目鬼の胸の中から顔を起こし、男の子は非常にはっきりした発音と強い、まるで大人が発するような断固とした調子の、だが非常に早口の英語で男に向かって反論し始めたのだった。
「I just saw Choronzon! He isn't a ghost at all! But an ugly merman! It's a devilish monster of the wartery chaotic abyss, confusion and dispersion!」
「今、何て言ったんだ?」百目鬼は女に顔を向けた。
女は暫く呆然としたまま、答えられなかったが、やがて我に返って言った。
「……この子、ちゃんと英語が話せるのね……。よく聞き取れなかったけど……醜くて恐ろしい半魚人の怪物を見たって言ってたわ。……混乱、分散、水の渾沌とした淵……何のことかしら、コロンゾン……コロンゾン、どこかで聞いたような……」
「なーに、その子は頭がいいんですよ」
黒人が近づいてきて白い歯をきらめかせて笑った。
「四カ国語は五歳児並に喋れますよ。英語、日本語、アラビア語、それにわたしが今教えているフランス語もね。尤もフランス語はまだまだド下手だが……」
男は子供の体を拭いてやりながら、今度は何と日本語で百目鬼に話しかけた。
「あんた、新聞記者だろう。昨日の学会で見たよ。ふん、わたしを覚えていないのかね」
「……あなたは誰だ?」百目鬼は警戒して後ずさった。
「何、怪しい者じゃないよ」
男はにやりと笑った。
「こう見えてもわたしは学者だ。この子の友達でもある。なあ、そうだろ、坊や」
男の子はふてくされた様子でバスタオルを黒人から引ったくり、自分で体を拭き始めた。
「やれやれ、気難しい坊っちゃんだ」
黒人は鼻でせせら嗤った。
「……わたしは日本語もできるのでね。この子に自分の名前を漢字で書けるように練習させてたんだ。砂の上での書き取りの訓練さ……さ、坊や、書いてごらん」
男は子供に木の枝を手渡そうとした。だが、男の子は金髪の娘の後ろに隠れてしまった。
「やれやれ、えらく嫌われたもんだな」
黒人は溜め息をついた。
「書いてごらん。簡単なことだろう?」
子供は枝をやっと受け取ったが、砂の上にしゃがみこんだまま、枝先をぴくりとも動かさず、凝っとしているだけだ。
「貸してご覧」黒人は枝を受け取ると、男の子の前に一文字の漢字を書いた。
百目鬼はその文字を見て、やや眉が吊り上がった。
砂の上には《神》と書かれていた。