Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭] 
第二章 神聖秘名 1-5 徐福伝説

 「孔子が老子に道徳について教えを乞いに行ったとき、恐ろしく捉み所のない老子の深遠な智恵にすっかり畏れ入って、天に昇る龍の如き人物と老子を評し、自分の如き凡人には計り知れないと溜め息を漏らしたという逸話が『史記』に出てきますが……」
 百目鬼自身も溜め息をつきながら言った。
 「わたしには、あなたが全く龍のように思われます」

 「いやいや、わたしなどをあの太上老君に譬えられるとは勿体無い。いや、面痒い限りですね」
 鳳来は愉快そうに笑った。
 「……しかしながら、龍とは欲深なナーガ、どんな神通力を持っていようと、掌中の玉を手放せない悲しい欲のため、悟ることのできない哀れな輩をも意味します。ところで、わたしの名は《鳳凰》を意味します。これがインドのガルーダ、八部衆の迦楼羅に由来することを考えるなら、わたしは自分の名前に喰われてしまうことになりますな。ハッハ、誠にこれは愉快な《名前負け》という奴でございますな。……そうそう、孔子様で思い出したが、彼は気違いの道士に《鳳》に譬えられて嘲られておりますね。《鳳よ、鳳よ、何ぞその徳の衰えたる》でしたか……。孔子はその気違い道士と語らいたいと思って追いかけるが、道士は足が速くて逃げられてしまった。わたしも捉み所のない道教の神秘に逃げられぬようにしなければなりませんな」

 「鳳来というのは素敵なお名前ですね。《鳳》とはホルスを思わせます」

 「何、実を申せば、徐福〔じょふく〕の《蓬莱〔ほうらい〕》伝説に引っかけたまでのこと。」
 僧侶は言った。
 「秦の始皇帝が不老長寿の霊薬を求めて、徐福という方士に命じて、東海の彼方にあるという幻の神仙境《蓬莱》を捜しに行かせたという話はご存じでしょう。徐福は日本に辿り着いたといわれる。天孫降臨とか邪馬台国とかがあったとされるよりも遥か昔の話ですがね。ふむ、その頃にはこの国には何があったのでしょうね……。本当にこの国のどこかに徐福の言った神山《蓬莱山》があって、その仙人が不老長寿の薬を持っていたのかもしれない。わたしは若い頃に世界最古の文学といわれる古代オリエントの『ギルガメシュ叙事詩』に感動したものです。ギルガメシュ王は不老長寿を求めて旅に出る。そこでメソポタミアのノアに当たる不死の人ウトナピシュティムに出会ったといいますね。ノアの方舟は、高い山峰の上に到達したといわれる。だとしたら、ノアは高い山のなかに留まっていたと考えられないでしょうか。そしてオリエントの神話ではノアは不老長寿の人だったといわれる。これはつまり仙人です。この日本という国にノアが来たんじゃないかと時々考えるのです。日本の神話を読むと、神の子は高天原から船に乗って地上に降りてくる。非常に面白い。天孫とはノアのことかもしれない。ギルガメシュもこの国に来たのかもしれない。仙人ノアに会うためにね……。ミスタ百目鬼、この国の古い名前は《ヤマト》というそうですね。《ヤマト》とは《ヤマビト》を意味するのではないでしょうか。そして……どう思われます? 仙人の《仙》の文字は、《山の人》を意味している。徐福は知っていたとは思われませんか。このヤマトの国の何処かの高山に仙人ノアがいて、不老長寿の秘密を守っていると。《仙》の国を求める徐福は、当然、このヤマトの国が伝説の《蓬莱》に違いないと思ったのではないでしょうか。」

 「あなたは仙人に憧れてこの日本に来た、と……?」

 「いや、何、老いぼれの戯言ですよ」
 鳳来は苦笑いを浮かべた。
 「わたしはこの国がとても気に入ったんですよ。小泉八雲となったラフカディオ・ハーンのようにね。それでロマンチックにもつい自分の名前をホーライにしてみたという訳です。あまり密教とは関係ありませんがね」

 鳳来は暫く窓の外をぼんやり眺めながら己れの剃頭をつるつると撫でていたが、やがて百目鬼に向き直って言った。
 「それから、タロットについてのあなたの第二の質問にもお答えしなければなりませんな」

 「第二の質問……」百目鬼は思い出すのに時間がかかった。
 「ああ、タロットは余り東洋的じゃないのではないか、密教的な曼荼羅には合わないのではないかと……」

 「タロットの起源については確かに色々言われてきました」
 そう言いながら僧侶は、大きな書斎机の抽出を開け、喋りながら中から次から次にタロットカードの小さな紙箱を取り出しては、百目鬼の手前のテーブルの上に積み上げ始めた。呆れたコレクションの分量だ。テーブルは忽ちカードの小箱の今にも崩れ溢れ出しそうな山に埋め尽くされてしまった。