現実性(Reality)は、可能性(possibility)からは出来しない。

 可能性からは可能性しか出て来ない。
 可能性は有り得る世界(存在・素材)しか造れない。

 実在する世界を開示する現実性は
 現実性からしか出来しない。
 それは言い換えるなら、
 可能性には何も出来ないということだ。

 逆に可能性に現実性が侵入し出来することこそが
 《出来る》という爆発的出来事の根源的な体験なのである。

 その瞬間に現実的実体は
 その全き美しさにおいて生き生きと出来ている。

 可能性の薄暗い夢の卵の閉ざされた悪の殻に亀裂が入り、
 金色の現実性のキラキラとした
 春のあけぼのの光がそのなかに流れ射しこむ。

 現実は美しい。


《春はあけぼの。やうやうしろくなり行く山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる》(枕草子・春はあけぼの)

《夢からぬけ出すためには、不可能に触れることが必要である。夢の中には、不可能はない。ただ無能力があるばかりである。》(シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』「不可能なもの」/田辺保訳・ちくま学芸文庫 P162)



 可能性の夢の卵、
 それは重苦しい悪夢で人を包む催眠の呪縛だ。
 その悪に苦く氷った鉄の卵殻の牢獄のなかで
 人の魂は腐る。
 孵化しないまま腐って溶ける。
 卵のせまい器のなかで
 息が詰まったまま死んでゆくヒナは哀れだ。
 胚が自らの取るべきかたちを取りそこねたまま凝り固まる。

 それは鳥のなり損ないの固茹卵=ハードボイルドで、
 たとい完熟していたとしても
 それは自らの成るべきものを間違えている。

 胚種は天にはばたく鳥となるべきものであって、
 それ自体において凝固して食用卵という
 存在の蛋白質(プロテイン)の果実となるべきではない。

 それがプロティノス哲学(ネオプラトニズム)の
 大きな過ちだ。
 自らの〈存在〉の中央の黄色い太陽〈イデア〉の
 エイドス(形相=種)のかたちに見とれるものは
 白く凝固した〈目〉になって滅び、
 鳥にその黄色い死んだ瞳を啄まれて食い殺される。
 そのような個体性は
 ヒトデナシの固体性であるに過ぎない。

 悪の卵の気味(黄身)の悪い閉塞感を
 〈気〉のせいにするものは、
 やがてその気詰まりのなかに閉じこもって
 自分が死んだことにすら気づかず、
 〈気〉すなわち天空の〈風〉のプネウマのなかに
 〈帆=翼〉を広げて巣立ち、
 出港する真の〈命〉の誕生のチャンスを永遠に失ってしまう。

 〈命〉の意味はその自我の殻を突き破って
 宇宙の彼方にまで大きく強く広がり
 万物をその羽撃きの起こす風のうちに孕む、
 エネルギッシュな〈現実〉の
 〈飛鳥/鷹〉の翼の躍動のうちにこそある。

 それは純粋な POWER である。

 鳥は飛ぶ能力があるから飛ぶのではない。
 現実の風の力に運ばれるからこそ強力に飛ぶのである。

 真に尊い〈命〉とは
 この天翔ける大宇宙の暴風の猛禽の
 不死の生命の激しい燃焼の〈表現〉にこそある。

 愚かしく〈卵殻〉の〈器〉の〈内輪〉に閉じこもって
 暖められるがままに
 ハードボイルドエッグの果実になりゆく
 〈存在〉の果実たちに
 〈命〉が宿っているなどというのは錯覚である。

  *  *  *

 現実はハードボイルドではない。

 ハードボイルドの意味するものは
 世界の終末という孤独=蠱毒という悪夢であるに過ぎない。

 その苦さ、その重苦しさ、その忌まわしさを
 誰よりも痛ましく絶望的に表現しているのは
 村上春樹、特にその初期作品だ。

 村上春樹の描くのは魂の墓場の悪夢の世界。
 ストレイシープとスケープゴートの交錯する
 少しも美しいところのない偽りの現実の世界。
 虚妄な世界、醜悪な世界、
 一刻も早く滅びたほうがいい全く無価値な世界である。

 村上春樹は表現する、世界を奪われ、現実を奪われ、
 言葉を奪われた小さな子供の救いのない絶望の表情を。

 それだけが美しい。
 それだけが何者によっても奪えない真実を暴いている。

 村上春樹の文学の本質は告訴である。
 それは共感や同情を頑なに拒む。

 それは言っている。
 全ての言葉を奪われ、万物が虚偽に帰したとしても、
 辱められた少年の顔を、
 無言で問い詰める深い痛みを秘めたそのまなざしの
 黙示する言葉は奪えない。

 書かない(書けない)からこそ彼はそれを暴き出す。
 自分が殺された子供であるということを。
 そして心を殺してはいけないのだということを。
 そして何が本当は一番悪いのかということを。

 《世界と自分の闘争では世界の方に支援せよ》という
 自殺の倫理こそが悪なのだ。
 村上春樹が本気で
 そんなことを主張していると信じること程に、
 彼の命懸けの表現を侮蔑する批評はない。

 それは恥を忍んで彼が表現した、
 言葉を心を人格の尊厳を
 根こそぎに奪い取られた少年の、
 欺瞞の世界の全体を永遠に告発しようとする
 必死の形相を削除しようとすることである。

 《世界と自分の闘争では世界の方に支援せよ》
 などということを命令するような世界は
 最悪の絶望的な世界であり、
 それがつまりは〈日本〉
 そして〈文学〉であるというのなら、
 そんなものは滅びねばならない。
 そんな世界に美しいものなど何もないからである。

 彼が書いているのは
 《世界と自分の闘争では世界の方に支援せよ》などという
 みにくい倫理がどれほど呪わしいかということである。

 それが僕を殺したのだ、と彼は告発している。
 僕の言うことは全部嘘だ!という
 凄まじい爆発するような叫びが
 彼の行間から白く眩い閃光を発して迸っている。

 その村上春樹の憎しみこそが美しい。

 そこにあるのは単にウジウジとした自己嫌悪などではない。
 客観的に悪のトポスを指弾することである。
 心の底から憎んでいるものに、
 愛しているよと優しげなほほ笑みを浮かべることを強制する
 権力が現実に機能している最悪の世界がある。
 自分を殺し犯した殺人鬼に
 愛と恩義と忠誠を示さねばならない
 地獄よりも地獄的な天国がある。
 戦争よりも遥かに残虐な平和がそこにある。

 マインドコントロールを万人に強制し、
 自分の一番言いたくないことだけを言い、
 自分の心に乖くことだけを欲するように仕向ける
 透明な魔物が現実に存在している。

 心を破壊せよ、心を破壊せよ、
 とそれは有無を言わさず命令している。

 最低の奴隷であっても
 これほどひどい辱めを受けてなどいない。

 地獄よりも悪いものを日本人は作ってしまった。

 それは人間が人間であることを根源的に禁止する社会であり、
 ヒトラーでさえ作ることの出来なかった
 完全なアウシュヴィッツである。

 そこではユダヤ人たちが
 ガス室をニコニコ笑いながら建設し、
 ハイル・ヒトラーと言いながら
 屠殺されていくことを
 光栄に思っているような世界である。

 アーリア人など一人もいない。
 全員がユダヤ人で
 自分たちをホロコーストする政策を
 全員一致で可決する以外の
 何も出来ないようにプログラムされているのである。

 何故ならそこにはナチス以外のいかなる党も
 存在することが有り得なくされてしまっているからである。