次に、わたしが〈形而上学〉というものは
単にそれが第一哲学であるという意味をこめて、
またそれがこれまで形而上学と呼ばれてきた
ということを踏まえてそう言っているだけのことであって、
わたしはこの名称を好もしく思っていない。

易経に由来するその訳語は、
寧ろ〈超自然学〉とでも訳した方がよい
原語の meta-physics の語感を伝えていないが、
わたしは metaphysics という
アリストテレスの本来無題であった謎の書物に
困った揚句に無理矢理おしつけられたこの名称も良いとは思っていない。

それは最初に編集されたアリストテレス全集のなかに
この一四巻からなる謎の書物が置かれた位置を、
すなわち〈『自然学』の後〉というその定位のされ方自身を
名称化したものである。

形而上学、それは本来無名の、のっぺらぼうの、
名状しがたい、得体の知れぬ、まさに不自然な、
どこにもそのおかれるべき場所(トポス)をもたない
不可思議な書物であった。
このことを強調しておきたい。

何故ならそれこそ形而上学の全体性からの絶対的食み出しと
そのユートピア的性格を雄弁に物語るものだと思われるからである。

形而上学はちょうどレヴィナスの〈他者〉のように
全体性を外から審問する学で有り得る。
そしてまた形而上学はエルンスト・ブロッホのいうような
ユートピア的な希望の原理で有り得るであろう。

しかし同時にこの形而上学の外部性・無場処性は
それにもかかわらず全体性に捕囚され、
預言者ダニエルの如く
己れのものではない見知らぬ名前を押し付けられてしまっているのである。

言換えればそれはまさにこの定位と命名によって
顔あるものにせしめられることによって、
形而上学はその本来の主体性を剥奪せられている。

それは学問体系に幽閉されることによって
その自由を奪われてしまっているのである。

無論、預言者ダニエルはそれでも己れを幽閉めたバビロンの壁に
メネ・メネ・テケル・ウパルシン
(汝は測られたり、測られたり、分かるるべし)
という呪詛の銘文を刻むであろう。
そしていつの日にかこの預言は成就することではあろう。

そして或る意味ではそれはその通りになった。
まさに学の体系は類と種によって自らを測定し、
己れの内に諸学を分類することによって統一者たらんとしたのだが、
まさにその分類した通りに派生した諸科学は
学の全体性の理念それ自体を分裂させる如く自立してゆき、
落ちぶれた王は自らを科学基礎論などと称して
今更威張返ってみたところで誰にも見向きもされないのである。

しかしそれでもダニエルの捕囚は解かれてはいない。
厳密な学としての哲学が崩潰してしまったところで、
思想というより切実な面からいって
事態は少しも好転などしていないからである。

王は、全体性の理念は、
職業としての学問の厭味ったらしい官僚主義的性格は
少しも正されてはいない。

まさに悪い意味での、
バビロン的形而上学の体制は
(それを資本主義体制といいかえてもいいのだが)
少しもその硬直的価値体系による抑圧を解かない。

だからこそデリダのような脱構築の哲学が未だに必要なのであるし、
まただからこそ老人支配の管理社会の抑圧の下で
子供達がついには互いに殺し合いをしなければならないような
灰色の壁のなかに今でも閉込められているのである。

その場処は強制収用所であり精神病院であり
また軍事教練施設であるに過ぎないのに、
麗々しく〈学校〉などと呼ばれている。
頭脳と人格の破壊以外のなにものでもないものを
〈教育〉と呼んでいる。

これこそわたしたちのみにくい文化である。

このみにくい文化の醜さを見にくくし、
却って何か美しいものがあるかのように錯覚させるものが
普通の意味の美学である。

しかし、そのような欺瞞的美学は、
このようなみにくい文化ともども徹底的に批判され
破壊し尽くさなければならない。
またこのような愚かしいものを自然で当然で常識的であるというなら
そのような感性、そのような日本的自然の自明性こそ
真先に疑わしいものとしなければならない。

わたしの童心、わたしの純粋理性は、
そういう大人の偽られた良心の
尤もらしげで愛のない訳知顔の空しい嘘を最も憎む。

童心というものは、
蔑まれること、
歪められること、
騙されることを最も憎む。

童心は大人のみにくい嘘を許さない。

それ自体高い叡智である童心は
大人の悪知恵である似非学問と
白を黒といいくるめる人を馬鹿にした弁証法と
抑圧的な法の哲学というものを永遠に決して許すことはない。

童心とは似非哲学を裁く理性の法廷であると同時に
それ自体、邪悪な社会に神罰を下す最後の審判の法廷である。

さて、わたしはむしろ形而上学を
metaphysics とは呼ばないで、apophysics と呼びたい。
それは自然学から切り離された学、
或いは不自然学というほどの意味だが、
敢えて訳せば〈形而外学〉である。
それは形而上/形而下という
凡庸な対立を切り離すような外部性を意味している。