Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭] 

第一章 夜鬼逍遙 6-2 荒ぶる金星


 《金神》の《金》とは、五行の金。
 《金神》は《金気》から発した邪神なのである。

 陰陽道は、中国で発達した陰陽五行説でもある。
 そこで万物は基本的には陰陽の二気によって生じると考えられた。

 二気は、木・火・土・金・水の五行を生む。
 それは気の五つの様態であり、森羅万象を成り立たしめる五つの元素〔エレメント〕の如きものである。
 それが西洋の四大、風・火・水・地と違うのは、陰陽五行説では、物質ですら陰陽二気の結ぼれのようなものとして考えているため、それがそれ以上還元不可能な不変の最終実体ではないということにある。だから、西洋の四大元素は互いに他に変化するようなことはない。しかし、東洋の五行は、たやすく他のものに変容する。陰陽二気にしてからが、既にそういった代物なのだ。陰極まって陽が生じ、陽極まって陰が生じる。このサイクルの繰り返しである。五行はこの陰陽二気の相互交替のサイクルのなかに一時的に現れる《気》の状態を意味するに過ぎない。

 この五行のうち、土気は陰陽半々、木気・火気が陽気、金気・水気が陰気とされ、更に木気を別名《生気》・火気を別名《旺気》・金気を別名《老気》・水気を別名《死気》と呼んだ。

 五行は方位も表す。
 木は東で蒼龍または青龍をシンボルとする。火は南で朱雀、土は中央で黄龍、金は西で、壁画にも現れている白虎、水は北で玄武をそれぞれのシンボルとしている。

 五行の間には、相性が存在する。良い相性を説明するのが五行相生説であり、「木生火・火生土・土生金・金生水・水生木」、即ち、「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生じる」という五行の循環的な発生を説明している。

 一方、悪い相性を説明するのが五行相剋説である。こちらは「木剋土・土剋水・水剋火・火剋金・金剋木」、即ち「木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち金は木に勝つ」という五行の循環的な闘争関係を説明している。

 「金は木に勝つ」、つまり金は刃物であり、斧となって木を伐り倒し、鎌となって草を枯死させ、また、時には、剣となって人を斬る。
 金気の不吉さこそ、その精である《金神》の恐れられた所以であった。

 陰陽道は、その伝説的な人物・安倍晴明の家紋《晴明桔梗》が、ペンタグラムの星の形をしていることがまさに象徴的に物語るように、星の宗教でもあり、二十八宿・七曜・九曜を組み合わせた《宿曜道〔すくようどう〕》でも知られる。
 《金神》は、やはり星神として最も恐れられた大将軍神や太白神と共に、金星の精霊である。
 金星は別名を太白星ともいい、凶兵を司るといわれる。
 金星の《金》は、《禁》に通じる。金星が他の星や星座に余りに接近すると天変地異や内乱の前兆とされ、その動きは常に警戒されていたという。

 現在主流となっている西洋占星術ではヴィーナスと呼ばれ、愛と平和、美と調和を司るといわれるこの麗しく優しい星、そして吉星とされているこの《金星》には、隠された恐ろしい顔があったのである。

 西洋占星術は古代バビロニアに発する。
 バビロニアでも金星は美と愛と豊饒の女神イシュタルとして崇拝された。
 イシュタルは全ての美の女神の起源でもある。エジプトのイシス、カナンのアシュタロテ、ギリシャのアフロディテ、更に北欧のフリッガやフレイヤに至る美しい金星の女神たちは、彼女、月の娘イシュタルの移り変わった姿なのだと百目鬼は若い頃に、やはり美しい女性から教えられたことがある。

 しかし、麗しいと共に誇り高いイシュタルは、また、荒々しく、気性の激しい戦争の女神でもあった。恐ろしい一面も合わせ持っていたのである。
 金星イシュタルの異変は古代バビロニアの神官にとっても凶事の前触れとして恐れられていた。

 金星は戦いを好む星でもある。
 「世界の光」「女神の中の女神」「子宮を開く者」「慈愛深い神聖娼婦」などと呼ばれたこの女神は、同時に「万軍の女王」「力を与える者」「勝利の女神」ともいい、明白に軍神であり、戦勝祈願の祈りが捧げられたことが分かっている。
 戦争の神としての性格は、実はギリシャのアフロディテにも見られ、戦勝の女神としてスパルタで崇拝されている。

 百目鬼はようやく思い出した、アフロディテの戦車は、鳥に牽かれる。その鳥はしばしば白鳥や鳩だったのだ。

 そして、何よりも金星とはルシファー、『イザヤ書』の《暁の子・明けの明星》、ヘレルベンシャハルでもある。
 至高神〔エル=エリオン〕ヤハウェに叛逆し、敗北したとされる力天使の長。
 『イザヤ書』の著者は、滅び行くアッシリアまたはバビロニアの王を指し、後に悪魔ルシファーのこととして神秘化されてゆくあの有名な嘲りの挽歌を謳ったというが、そのとき念頭にあったのは、バビロニアの天界の女王イシュタルの没落だったのかもしれない。

 この墜ちる星神ルシファーの元型は、ウガリト辺りのバール崇拝に出てくる星神アッタルにあるとも、カナンの女神アシュラの息子の双子の明星神の片割れのシャヘルにあったともいう。
 弟は夕べの神、宵の明星〔ヴェスパー〕シャレム、この双子神は遠い昔イェルサレムで崇拝された。兄のシャヘルは戦いの神、太陽神の王座を欲して争いをしかけて敗れ、稲妻となって落ちる。弟のシャレムは平和の神。死に行く太陽に向け、安らかな平和の挨拶を送る。ヘブライ語でシャローム、アラビア語でサラーム、平和を意味するこの挨拶の言葉はシャレムに由来し、イェルサレムの名も一説ではそこから来るという。シャヘルとシャレム、戦争と平和の双子神、《金星》の二つの顔。

 美の星《金星》の戦いの神としての性格は現代の占星術でも僅かにその痕跡を留めている。
 マルクス、レーニン、ホメイニー、ヒトラー、恐るべき革命やクーデターや戦争の指導者たち。彼らは古来金星に支配されるといわれてきた牡牛座の生まれだ。

 現在月社会で最もポピュラーな占星学の本では、《魂の深い傷とその癒し、抑圧に対する魂の底からの激しい抗議、死からの再生、集合的無意識と神の怒り、奇蹟と魔力、裁きと救済、古代の叡智》を司るとされる新しい惑星《冥后星〔〔ペルセポネー〕》――しかし、この呼称は火星や地球では一般的ではない。特に、太陽系第十番目のこの星が発見された後に起こった未曾有の大災厄を直接蒙った地球の人々は、大きな影響力を持つローマ法皇庁の厳かな命名に従って、この星を恐るべき裁きと破壊と終末の神《ヤハウェ》の名前でいつしか呼び変えるようになっていた。和名は《神王星〔しんのうせい〕》である――の支配下に置き換えられてはいるが、それでもなお牡牛座は金星の支配をも強く受けているため、柔和であるとされる。

 確かに彼らは普段はおとなしく保守的で争いを好まない平和な人々である。
 だが、ひとたび怒ると獅子をも殺す猛牛のような底恐ろしい面も隠している。

 頑固で一旦こうと決めたら梃子でも譲らない。普段はぐずぐずして優柔不断な癖に、一度戦うと決めたら死ぬまで戦いをやめることはない。不屈の闘志の持ち主でもある。
 時として、他人を熱狂心服させ、威圧し服従させてしまう不思議な才能に恵まれている者もいる。
 彼らはしばしば政治家であり、革命家であり、宗教家だ。強烈なカリスマを内に秘めているのだ。

 牡牛座が動くと煽動された大衆が動く。恰も大地が動き大地震となるように。最も保守的な星座と言われながら、最も革命的で反権力的な星座ともいわれている。
 柔順なのは見かけだけ、内側には反骨精神が頑と居座り、虎視眈々と機を窺っている曲者なのだ。
 腰が重いことを頭の鈍さや行動力のなさと勘違いすると痛い目を見る。
 余りの慎重さと計算高さが動きを鈍らせているのに過ぎない。
 彼らはプライドが高く、軽薄と虚飾を蔑み、厳しい自重のなかで生きている。
 しかし、もし、彼らにとって神聖不可侵なものを僅かでも傷つけるなら、己の愛するものを守ろうとするその激しい怒りは断固とした行動に及ぶ。
 しかも恨みを簡単に忘れてくれる相手ではない。執念深さにかけては、蠍座と一、二を争うとさえいわれる程だ。
 時には何年もかけ、じっと黙って復讐の機を窺い、相手がすっかり忘れて油断しているときに、突然恐るべき裁きの鉄鎚を振り降ろす。その怒り方は、どこか神の怒り方にすら似ているのだ。

 百目鬼が生涯ただ一人愛したその美しい女性、イシュタルの話をしてくれたその娘は、牡牛座の生まれだった。
 柔和で上品、教養深く、ユーモアと自制心に富み、非常な美人だったが、不思議にそのことが気にならない。余り目立つという訳ではなく、寧ろ親しみやすさを覚えた。彼女は内気だった。

 だが、一度だけ彼女、モードリンが凄まじく怒ったのを見たことがある。
 よく覚えていないが、何か気に障ることをつい口にしてしまったときだ。彼女は殴りはしなかった。だが、二度と忘れられぬような、悲しみと怒りで一杯になった物凄い目で百目鬼を睨みつけ、何も言わずに、すぐ傍らにあった木材のテーブルを破壊した。

 素手で。たった一撃で。

 どこに一体そんな馬鹿力が潜んでいたのか。テーブルは空手の名人にやられたように真っ二つに裂かれていた。唖然とする百目鬼を残してモードリンは出て行き、それから二週間も、頑固に口を閉ざし、百目鬼から顔を背け続けた。
 すっかり参ってしまった百目鬼が遂に土下座して謝ったとき、優しく情け深いモードリンが忽ち魔法のように戻ってきたが、その時の人の変わったような怒りの顔の物凄さと、テーブルを叩き壊した恐ろしい拳の落雷にも似た重い響きとは、生涯決して忘れることのできない思い出となった。

 ミケランジェロは壁画でその牡牛座を強調している。もし、それが牡牛座から出るメシアを意味し、《金神》にしてカインであるとしたら、恐るべきその《月の子》とは、まさしく金神七殺の凄まじい崇りの力を秘めているに違いない。