差異――むしろ爆発的な、核爆弾のような差異としての差異がある。破壊触発の極限において、差異は同一性の破壊であるばかりか、差異であることそのものへの破壊ですらあることだろう。
 何もかもをぶち壊しにするような純粋な差異は、恐らく〈出来事〉としかいえない。それは炸裂し、吹っ飛んでしまう。後には痕跡というより地をえぐる爪痕のように凄まじい重症しか残らない。ただブラックホールしか残さないような最も野蛮で凶変的な差異というものがある。

 それは野獣的だ。脳髄を破壊し、理性の箍を吹き飛ばしてしまう〈叫び〉としてしかありえないような〈ありえない差異〉というのがある。

 この最大級の差異のことをブランショは〈災厄〉と呼んでいる。わたしの考えでは、この〈災厄〉はレヴィナスが自分の〈イリヤ〉に引き寄せてそれと同一視しているような程度のものと恐らく違っている。

 ブランショが〈災厄〉と呼んだもの、それはレヴィナスの〈イリヤ〉が未だ〈恐怖〉の体験だったのに対し、その〈恐怖〉をすら不可能にしてしまうような何かなのではないか。つまりイリヤがアウシュヴィッツでありサリンであるとしたら、ブランショの(災厄)はヒロシマでありネバダでありハルマゲドンであり怒りの神なのだ。

 〈災厄〉はもはや〈不在〉とはいえない。逆に〈イリヤ〉はまさしく〈不在〉だったのだが、〈災厄〉は現前しないとしても不在ではないような暴露性であり被爆性なのだ。ブランショの思考は被爆者の思考、それも閃光と共に蒸発させられ、恐怖を覚えることすらなく消されてしまった被爆者のなかの被爆者の思考だ。

 だからこそ、逆に〈災厄〉にこそ〈イリヤ〉の恐怖の迷宮を、この恐怖の大王の黒き鉄の牢獄を打ち破る最後の希望をわたしは託そう。〈災厄〉、それは〈奇蹟〉であるのだから。
 それはレヴィナスの神を廃棄するような神であり、律法を完全に爆破して星空に返してしまうような神の〈神の内なる位相転換〉なのである。

 もはや神が神ならざる神となるとき、われわれもまたわれわれならざるわれわれとなることが出来る。しかし、それが「有り得る」とか「可能である」といかいうのではないのだ。「出来る」とはもはや能力とはいえない超能力のようなものだが、「超能力」とそれをいうべきではない。
 それはむしろ〈放射能〉というべきもの、〈根源的能動性〉というべきもの、出来事としての出来事の洪水なのだ。

 風がそれをもたらす。というより、風がそれであるような風媒が既にしてそれなのだ。

 出来事は、超能力でも無能力でも能力でもありえない。それはまさにありえない力だ。放射能力であり、そして一層、不可能力ないし不可抗力としかいえないような魔法なのだ。

 おそらく災厄とはついには星のきらめきである。それは〈存在〉をすら凌駕する〈運命〉の美しさなのである。

                               ―了―


【後記】「形而上学的〈風〉についての考察」は、ひとまずここで筆を置くかたちにて終わる。ベースになった原稿は1996年頃に書かれたものだ。9年後に読み返しつつ、それと格闘するようにして加筆・削除・訂正を行い、ここに初めて人目に晒すかたちとなった。
 考察の部分部分には途切れや飛躍が目立つ。これは敢えてそうしたものである。わたしは自分自身の思考を出来るだけ切断しておかなければならなかった。それでこのような、カマイタチに切り刻まれたような形のテクストとなった。
 もちろん、わたしのなかで形而上学的〈風〉について考察するという課題はこれで終わった訳ではない。だが、この原稿の続編が書かれる事はもう二度とありえないだろう。せいぜい加筆訂正が行われることがあるとしても、この十四篇からなる断章集に新たな章が付け加わる事はない。
 この考察は〈風〉の思考の始まりの場所にある。そしてその扉は永遠にこのままに〈風〉に向かって開け放たれたままにしておかねばならない。