Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 1-1 呪縛の扉

 

 朝はもう来ていた。

 いつのまにか既に通廊〔コリドール〕に出ていた。
 自室〔コンパートメント〕のドアを外側から閉めかけていた右手が、ふとそこで停まっている。
 怪訝な気が掠めて、たったいま通り抜けてきたばかりの筈の、そのうすら矇〔くら〕い半開きの裂け目を覗き込む。

 異質なはりつめた寂寞〔しじま〕が、しらじらとこちらを見返している。
 うっかり開けてしまった余所の家の内部のように。

 ぶあつい石蓋を外された、古く奥深い墓窟を思わせ、なかから閉めきり鎖〔と〕じこめられた三日間の重い匂いが、鼻先に息を吹きかける。

 いりくぼんだ奥の寝室には、まだ自分がもうひとり居残っていて、寝台の上に膝をかかえ眸を皎らせ、虚空の一点になお陰鬱な夢を睨みつづけている気がした。

 その圧しつけるような耐え難い魘夢に見入りまた魅入られているもうひとりの死角をくぐり、跫音を忍ばせてここまで逃げ延びてきたのだろうか。それともそのもうひとりの聞き耳に空巣のように怯えながら、このすこし気味のわるい部屋にこれから侵入しなければならないのだろうか。

 と、気配を察したのか、何かが突如起き上がり、恐ろしい形相をしてこちらに飛びかってくるような戦慄が走り、空虚を一瞬引き攣らせる。

 固唾を飲んで見守るが、無論、鬼も蛇も出てくる気遣いはなかった。

 室内は前にもまして鎮まり返るばかりで、ひとすじの風ひとつ起こらず、そこには穏やかに凍りついた時間が死のように渟まって乱れずにいた。

 却って無気味なくらいに。それは住み馴れた部屋だった。

 ついに目を逸らし、ドアをぴしゃりと閉め、部屋のなかに絶え間なく沸き起こってくる不安を閉じ込め、自分で自分を閉め出してしまう。
 だが、途端にいいしれぬ怖じ気がこみあげ、うすぐろく蟠りながら胸倉に押し寄せてくる。

 電子鑰〔エレクトロック〕の数字盤〔キーボード〕に伸ばした人差指に震顫〔パーキンソン〕が始まる。

 上脣を舐めて躊躇をみずから窘〔たしな〕めていると、すうっとひとりでにドアがもちあがってパックリ蓋を開けた。
 どうも内鍵の自動錠〔オートロック〕の接触が甘いらしい。
 気圧差でドアが開くのは珍しいことではない。
 だが、そうはいっても鉄扉はまるでみずからの意志をもつ生き物みたいにスルスルと開いてゆく。
 《お入り》とでも言わんばかりに。

 慌てて再びドアノブに触れ、放っておけば何処までも開いてゆきそうな何かしら淫らな扉をおしとどめる。

 嘘のようにドアはぴたりと止まり、手許に僅かの体重も預けずにおとなしくなる。
 再び元通りの状況を復元して、全てがこちらのまわりでひっそりする。

 もういちどドアを閉まるスレスレまでスムースにもってゆく。

 だが、今度はこちらがその手を止め、深夜こっそりと冷蔵庫の中身を検〔あらた〕めるように、やや前屈みに背跼〔せぐく〕み、ドアに掛けた肘をそっと引き寄せてゆく。

 そうだ、どうしてもそうしなければならない。

 生まれたばかりの嬰児が、自分のたったいま抜け出してきたばかりの、黒やかな始源の陰唇の奥底、とおい子宮の渾沌のなかに置き忘れてきた己れの影法師へと振り向きかけたまま、そこに咒縛されてしまうように、その内と外の峡い硲〔はざま〕の虜になって、身動きがじしんの躯のうわべにふいに薄い霜となって凝り固まってしまう。

 

 [続き]