Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭] 
第一章 夜鬼逍遙 4-5 月喪の秘神

 「男神アマテラスが、女神アマテラスに性転換したのは、女帝・持統天皇の治世に於いてではないかと言われている」

 百目鬼は、不意に蘇ってきた忿懣を鎮めて、講釈を続行する。

 「きみも知っていると思うが、アマテラス女神は巫女の装束を着た姿でよく描かれている。元々は男の太陽神アマテルを祀る立場の巫女が、いつの間にか祀られる立場の神にすりかわり、元の神は忘れ去られてしまったんだ。持統天皇は元々天武天皇の妻だった。天皇は現人神として日神に同一視され、皇后はそれを祀る《日女〔ヒルメ〕》つまり巫女だった。ところがその巫女が即位して現人神になったので、神もそれに併せて性転換されなければならなかったのではないかというんだ。日本のように太陽神が女神というのは非常に珍しい例なんだよ。通常、太陽神というのは男神で、月神が女神なんだ。ここにある月夜美之命がツクヨミの本来の姿だったかもしれないというのは、大いにあり得ることだと思う。」

 「どうしてですか?」

 「主神としての太陽神の崇拝は、太陽暦の採用・父権制と氏族社会の成立と共に始まるとよく言われる。実はそれ以前は、月の女神が主神で、暦も太陰暦、母権制の部族社会で、豊饒のために農耕儀礼を行っていたんだ。この女神を祀ったのは男の神官だった。先程言った《祀る者が祀られる者になる》というのは実は宗教の歴史ではよくあることなんだ。ツクヨミが男神であるのは、元々月の女神の神官だったものが、父権制の採用と共に男の神官の権威が高まり、やがて月神そのものと考えられるようになったという経緯があったのかも知れないんだ。確かに、月の神であるなら、ツクヨミこそアマテラスやスサノオよりも由来は古く、かつては彼らよりも偉大な神だったのかもしれない。ただ、恐らくそのとき、ツクヨミはどうしても女神でなければおかしいんだ。」

 月山の神というツクヨミノミコト。その山は死霊の山、いわば黄泉または常世への入り口である。
 黄泉国から逃げ帰ったイザナギは禊によってアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子を生む。そしてそれぞれに領土を与える。アマテラスには高天原を、ツクヨミには夜食国を、スサノオには大海原を。
 しかし、スサノオは母イザナミのいる根の国に帰りたいと哭き喚き、このスサノオの大声にかき消されるようにツクヨミはぱったりと消息を断つ。
 夜食国とは何処なのか、どんな処なのかを記紀は何も伝えてくれない。だが、そこは恐らく黄泉の国のことだ。ツクヨミの名前がそれを示している。

 彼は黄泉に着く。《着く黄泉の命》だ。
 彼はスサノオのように哭かなかった。それは母イザナミの処に帰ったからである。あるいはむしろツクヨミとはイザナミ女神そのものだったのかも知れない。

 ミケランジェロは月山ではなく白山を目指した。このことには意味がある。白山とは《白》、つまり九十九〔ツクモ〕、次百の山だ。ツクモとは月喪〔つくも〕、月忌みのことだ。月の神はそこに籠っていなければおかしい。
 
 百目鬼は『伊勢物語』のなかの歌を思い出した。

 百年〔ももとせ〕に一年〔ひととせ〕足らぬつくも髪、我を恋ふらしおもかげに見ゆ

 白山に向かったミケランジェロの念頭にも、恐らくこの歌は白山から呼びかける谺のように微かに響き渡っていたのではないかと思われるのだった。

 つくも髪とは巫女の物忌みの髪形。ここに別の天岩戸があったのだ。
 歌は、つくも髪の女性が、巫女の姿をした女神アマテラスならぬ女神ツクヨミが、恰もミケランジェロに恋焦がれているように、否、《来い》というように幻に現れたと告げているようではないか。

 つくも髪とは、海(スサノオ)や日(アマテラス)だけではなく、月(ツクヨミ)も神であるということをミケランジェロに思い出させている。
 しかもツクヨミはここでイザナミ女神としてミケランジェロをいざなっている。《百年〔ももとせ〕》の《百〔もも〕》とは、黄泉平坂でイザナギがイザナミの追っ手を追い払うために投げた《桃》の実のことを暗示するかのよう、《一年》の《一》は《人》、《年》の《せ》は夫を意味する《背》であるかのようにも読める。また、イザナギが振り返ってはいけなかった背中を、そして背中を向けて走り去った背中を思い出させる。
 《桃と背に人と背足らぬ》、謎のような言葉になるが、まるで自分に背を向けて去った夫イザナギを《人でなし》と恨むイザナミのようだ。そしてそのイザナミはツクモガミ、月の神ツクヨミであると告げているのだ。

 《百》に一画足りないから《白》は九十九となった。
 ふと百目鬼は、《白》に更にもう一画足りない文字が、他ならぬ《日》であることに気付く。
 《日》とはアマテラスのことだ。恰も白山に月忌みのためにまだ籠っている偉大な巫女ツクヨミが、岩戸から出てしまったアマテラスをその高みから見下ろし、一つ抜きん出ていることを誇っているかのように、月が太陽に優位することを、たち勝っていることを峰雪の輝く白さのなかで宣言しているかのように……。

 「……鬼は、ミケランジェロに《厳御霊は瑞御霊の内に宿れり》と言った」
 少年もまた推理を始めた。
 「それは、《艮の金神》が《坤の金神》に宿ったというメッセージだったんだ。ミケランジェロにとって《坤の金神》とは《スサノオ》のこととしか考えられなかった。彼は《艮の金神》=《スサノオ》の出現を求めて白山に行ったんだ!」
 
 「鬼は、殊更に出雲の土地を否定している」
 百目鬼は言った。
 「それは現れるのは《スサノオ》じゃない、別の者だと言いたかったんだ。でもミケランジェロにはその時点では伝わっていなかった……」だが、本当に伝わっていなかったのだろうか。
 言いながら、百目鬼は言い淀んでいた。
 本当は何もかもミケランジェロは承知の上だったのではないだろうか。百目鬼にはだんだんそのように思われてくるのだった。

 「ここに、こう、書いてあります」
 少年は携帯電脳〔サイバースレート〕に顔を近づけ、《永劫》の巻物を読み上げ始めた。
 「『…ナオは、王仁三郎に憑依した《スサノオ》が改心して、《坤の金神》としての役割に目覚めることによって、第二の、そして真の《天岩戸開き》が行われ、それまで押し込められていた真の神が現れて表に出され、世界の根本的変革改造が成就するものと考えた。』……それまで押し込められていた真の神が現れる……」
 少年は百目鬼に振り返り、叫ぶように続けた。
 「ミスタ百目鬼、真の《天岩戸開き》によって現れる真の神とは《艮の金神》のことでしょう。つまり、今回は、《スサノオ》という使ッパをもう使わず、その神御自らお出ましになるということです。彼の夢に出た《偽の鬼》王仁三郎は言いました。《御霊は水から出てくるぞよ》と。《水から》には別の意味があったんです。それは、《厳御霊である艮の金神が自ら出てくる》というお告げだったんです!」

 「しかもそれは《坤の金神》でもある」
 百目鬼は厳かに断言した。そう、母なる黄泉大神〔よもつおおかみ〕イザナミノミコトその人でもある。
 「ここのツクヨミがそれだ」
 既にイザナギから生まれた時点で、ツクヨミである《艮の金神》は確かに《変性女子》だったのだ。

 少年はふと腕組みし、聞くと半ば独り言のように呟いている。
 「うーん……でも、どうしてミケランジェロは王仁三郎を《偽の鬼》と決め付けたんでしょうねえ?」

 やおら百目鬼は、携帯電脳〔サイバースレート〕に飛びつき、憑かれたような勢いで《永劫》の書をスクロールさせ、更に、『教義』を意味する《法皇》を、『前史と背景』を意味する《運命の輪》を、『文書・教典の概説』を意味する《隠者》を、『人物伝記・伝説・逸話』を意味する《魔術師》を、次々にオープンしては、血眼の速読で狂ったように読み耽った。