Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭] 
第一章 夜鬼逍遙 4-3 虚空見日本国

 東北とは、天津神にまつろう国津神どころか、まつろわぬ禍津神々〔まがつかみがみ〕の蟠居する土地。
 まず、神武天皇に討たれた邪馬台国の長髄彦〔ながすねひこ〕・安日彦〔あびひこ〕兄弟が落ち延び、流れて作ったという伝説の叛逆王朝・東日流〔つがる〕王国の荒吐神〔アラハバキ〕、更に、常陸国の角のある竜神・夜刀神〔やとのかみ〕。
 そして、反体制勢力最大の英雄は、天津甕星〔あまつみかぼし〕とも呼ばれた香取〔かとり〕の天香香背男〔あまのかがせお〕だ。建御雷〔たけみかづち〕・経津主〔ふつぬし〕両柱の神に率いられた高天原天孫軍を蹴散らし、頑として不敗独立を貫いた大甕〔おおみか〕神社の赫〔かがや〕く天津赤星〔あまつあかぼし〕の神。
 東国には延々と蒼蝿なす土着神が居座り、大和朝廷を脅かし続けているのだ。
 そしてかれらこそニギハヤヒの系列に繋がる、古き《虚空見日本国》〔そらみつやまとのくに〕本来の神々なのである。

 にもかかわらず、今日でも出雲のスサノオを民衆の土着の怨念の代表者として崇拝する愚劣な新興宗教が跡を絶たないのが百目鬼には不可解だった。スサノオこそ天皇制イデオロギーを支える徹頭徹尾体制的な英雄神に他ならない。

 一方で、東北地方では天皇とまで言われ、東国に霸を唱え、大和朝廷に最後まで抵抗しながら敗れ去った古代東北王朝の最後の英雄だったに違いないヤマトタケルについては、殆ど一顧だにされていない。反乱の物語を鎮圧の物語に巧みにすり替える記紀編纂者の改竄がいまだに人々を惑わせている。出雲タケルと九州の熊襲タケルをぶち殺したヤマトタケルこそ反体制の英雄である。しかもヤマトタケルは大和朝廷の皇太子をもぶち殺している。神話ではヤマトタケルの兄になっている大碓皇子〔おおうすのみこ〕のことだ。

 神話では、天皇がヤマトタケルに、朝夕の会食に姿を見せぬ兄に出席するように注意しろと言う。しかし、その兄の大碓は五日経っても姿を見せない。天皇が大碓はどうしたと尋ねるとヤマトタケルは憮然と答える。
 《天皇の命を伝えようと、夜明けに兄が用を足しに厠に入った処を待ち構えて、捕まえ、締め上げ、打ちすえて折り畳み、手足をもぎ取った上で、薦〔こも〕に包んで投げ捨てました》
 この残酷な殺害の告白に、天皇は恐れ戦き、気性の粗暴なヤマトタケルを疎んで、九州の熊襲討伐の将に据える。こうして一連のヤマトタケルの朝敵征伐の旅が始まることになる。

  *  *  *

 ネオ=バビロン市の名物男、エロチックな描写に優れる余り、風紀の厳しい地球では発禁本扱いになることの多いファンタジー作家ジブリール・レヴァナーは、奇想天外な『ヤマトタケル』という小説のなかで、この記紀の神話を大胆な仮説の元にひっくり返している。

 レヴァナーは生粋のユダヤ系イタリア人だが、その殆どの作品を日本語で書き、驚く程日本語に堪能な人物、変人であるのはそれに留まらない。
 彼の名前ジブリールというのは本来はガブリエルでなければおかしい。
 ところがレヴァナーは何故かムスリムなのだ。そこで名前もアラビア風に改名したという訳だ。
 ネオ=バビロン市にはモスクが一軒もないのに、自称スーフィーだという彼は、自分の個人的な礼拝のために、こともあろうにネオ=マニ教の総本山イエス・パティビリス大聖堂のアースホールに出掛け、朝夕の祈りを地球の映像の中のメッカに捧げている。
 マニ教の幹部たちは、苦笑いしながらこの男の行動を黙認し、そのことに苦情が出るどころか、祈るジブリールの姿はネオ=バビロン市の観光案内にまでその写真が載せられ、地球でもそこそこ有名だ。地球のイスラム教会ではどこもレヴァナーを信者とは認めず、場違いな箇所で祈る彼に眉を顰めているというのに、レヴァナーは飄々としてその個人的な礼拝を頑固にアッラーに捧げ続けているのだ。

 さて、そのレヴァナーの問題の小説によれば、女王卑弥呼で知られる邪馬台国は実は東北にあり、代々、巫女が天皇として月の蛇神アマノテルビコを祀るシャーマニズムの政治が行われていた。彼は大胆にもヤマトタケルをオトタチバナ姫と同一人物とし、卑弥呼(彼によればヒミコは、ヒルコつまり水蛭子として東エビスの初代皇帝だったことになっている)の王朝《饒速日本国》〔にぎはやひのもとのくに〕最後の女帝=巫女として君臨していたとする。ヤマトタケル女王は日本海のみならず、丹波・伊勢・尾張の豪族をも束ねて、海洋の覇権まで握り、出雲・九州を支配下に置き西国を制圧した大和朝廷と睨み合っていた。
 大和朝廷は日本国女王〔ヤマトヒメ〕オトタチバナノヒメに帰順を要求、皇太子・大碓を派遣、大碓との結婚を要求するが、これを無礼としたオトタチバナは怒って、皇太子を虐殺、その無残な亡骸を、記紀に示されているような有様にしてつき返し、断固とした不服従の意を示す。これに怒った時の天皇は、九州の豪族・熊襲タケルを征夷大将軍に任命して、まつろわぬ日本を平定しようとする。たかが女とオトタチバナをなめてかかっていた熊襲タケルはあっさり返り討ちに合う。このとき熊襲タケルは彼女の勇猛さを称え、彼女にヤマトタケルスメラミコトの名前を贈り、大和朝廷を倒して国を統一してくれと遺言する。
 続いて出雲タケルが東征の総大将となるが、さんざんに打ち破られ、逆に出雲は制圧されてしまう。ヤマトタケルスメラミコトとなったオトタチバナは、大和朝廷を倒すために伊勢・尾張・丹波・越・出雲・美濃・伊吹・吉備の地方豪族を大同団結させ、八国連合の総大将となる。これがヤマタノオロチの正体だったというのだ。
 しかし、オトタチバナは、出雲タケルの卑劣な裏切りのため、あともう少しというところで大和朝廷の討伐に失敗する。
 三重から敗走し、尾張に至ったとき、アマノテルビコ竜神の力をもった守護の剣を、出雲タケルの息子スサノオに奪われてしまう。神話でヤマタノオロチの尾が割られて剣が出たことをレヴァナーは尾張に引っかけているのだ。記紀神話とは逆に、ここでオトタチバナはスサノオの策略で木刀と神剣をすり替えられてしまう。
 更に逃げるヤマトタケル=オトタチバナをスサノオは追いかけ、富士の裾野で最終決戦となる。ここで草薙剣を奮うのはスサノオである。炎に巻かれ、終に孤立したオトタチバナは海路を辿って、東北に逃げ戻ろうとするが、スサノオに率いられ、大和朝廷に寝返った連合水軍に追い詰められ、遂に海に身投げして果てる。
 このとき彼女は白鳥に変身し、唖然とする海人の軍勢の頭上を越え、天に昇って赤い星になる。あの永遠にまつろわぬ者のシンボル、天香香背男の誕生である。
 勝利したスサノオは奪った神剣を大和朝廷に献上するが、崇りを恐れた天皇はこの剣を嫌って、尾張氏に譲り渡して祀らせる。ここでレヴァナーの小説は終わっている。
 レヴァナーの小説の殆どは空想に基づくものだが、少なくともヤマトタケルが大和朝廷に対する反逆者だったとし、その兄の殺害の説話を、別の王朝の君主だったヤマトタケルが大和朝廷からの服従の要請(おそらく貢物の献上の要求)を蹴り、逆に使者を殺してその屍骸を献上して叛意を表明した事実を歪曲したものと読み解いた点には、百目鬼も異存はなかった。ヤマトタケルが女だったとかヤマタノオロチだったとかは小説家らしい虚構だとしても、「ヤマトタケルが朝敵を討伐した」という神話の背後には、大筋レヴァナーが推測したように、「ヤマトタケルが朝敵として討伐された、しかし、なかなか手強かった」という史実が潜んでいるのではないかというのはかなり信頼できる意見である。

 ところが、ヤマトタケルも天香香背男も新興宗教家に人気はなく、相変わらずスサノオが土着の怨念を代表する叛逆の英雄神としてスターの座を譲らないのだ。

 「……天孫族は土着の海洋民族に対する支配を確実にするため、自分たちの神を押し付けたのではなく、寧ろずっと老獪な手段に出たらしい。つまり、土着神アマテルを受け入れ、崇めることで皇祖神アマテラスに改変していったのさ。一方で自分たちの持って来た神スサノオの方を巧みに悪役にしながら、実際はスサノオを日本土着の神であると錯覚させ、土着神アマテラスを侵略者にすげ替える。だから本当に古代日本土着民の怨念を代表させるなら、英雄スサノオなんかを祭り上げるのは馬鹿のすることなんだ。それをするなら、断然、怪物ヤマタノオロチをこそ祭り上げなければおかしいんだ!」

 百目鬼は不意に激昂して吐き捨てるように言い放った。

 現在、その《天孫族》の末裔とされる高貴な一族は、《高天原》に帰還してしまって久しい。
 あの恐るべき東京壊滅の大惨事以降、神々の子孫の抜け殻となった曾ての皇居跡地は、江戸市と忌まわしいババロンとを分ける緑の境界線として、鎮護の森の庇護の翼を人々に残した。今、そこは記念公園となっている。

 《高天原》は日本列島の上空にある巨大な空中宮殿。その巨大で幻想的な静止衛星は、北半球の反対側にやはり静かに浮かぶイギリス王室の《ラピュタ》と並び、現代の世界の七不思議に数えられる。

 伝説のバベルの塔よりも遥かに高く、近づき難く捉え所ない幽遠にして峻厳な城壁を張り巡らし、狂気の洪水がいつ起こるとも知れぬ危険な地上を後にしながら、偉大な王達は、己の愛する国土からそれ以上遠く離れることができなかった。
 月へ、火星へ、更に遠く離れた木星の衛星へと、新天地を求める人々が追い抜くように宇宙へと巣立ちしていくなかで、突然重力の呪縛にとらわれたかのように、じっとそこに凍りついたように動かないでいる。彼らは地上から呼び止められてしまったのだ。

 《高き人々》はもはや、地上の民衆を支配も抑圧も統合もしていない。君臨すれども統治せずの言葉の通り、王の務めはただ純粋に王であること、王であり続けることの他に残っていなかった。それは清らかな夢、おとぎ話に出てくる永遠の魔法の白い城だ。

 確かに日本の王制は残った。限りもなく消毒された形で。

 《天皇》という名前に纏わる、神憑り的な熱狂も、その神秘的な儀式や神話や秘密も、古式ゆかしい美風も、また、隠然たる支配という神話も、遠い空の彼方に引っ越し、今では、理想的であるといえるかもしれないが、切なく、余りにも平和的で悲しくも静穏な、上品すぎる白い幸福のリボンの絆で国民と結ばれているに過ぎない。
 崇拝は根強く残っており、また、愚かしいマスコミがその雲上人の動静を感傷的で低俗な人々のために毎日報道しては話題を提供し続けているが、この余りにも体裁の良い天皇制には既に、輝かしい神国日本の面影も、おぞましく凶暴なカミカゼ日本の狂えるファシズムの黒い輝きの面影も既にない。