Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭] 
第一章 夜鬼逍遙 4-1 神の性転換

  百目鬼の膝の上で、携帯電脳〔サイバースレート〕が微かな検索音を立てて、スロットのMOをまさぐっている。

 光電窓〔ディスプレイ〕のデスクトップの左上に蓋の開いた木箱のアイコン。全ての宗教・オカルト関係のデータを集めた辞典《トート&ネクロノミコン Ver.3.0》のその物々しい蓋を開け、魔法球〔クリスタルオーブ〕にインプットされたキーワードに従い、選び出された項目の小窗〔ウィンドウ〕が次々と開かれてゆく。占い師のジプシー女の若い指が、その小窗を抓んでは、同じ大きさのタロットカードに揃え、カードを切っては、小山〔パイル〕に分けて分類整理を続けている。
 少年は、小さな目を輝かせて、その滑稽なコンピュータの見世物小屋に見入っている。その姿はこの歳の子供にありがちな無邪気なサイバーメデイアへの憧憬にあどけなく惑わされていて、先程の大人びた姿の面影もない。鵺のパイワケットが足元で退屈そうに欠伸している。

 全ての小山〔パイル〕が積み終わり、女の手が木箱を片付け、デスクトップを整理して、積み終わった6つのパイルを十字架の形に配置し直す。それから順々にパイルの一番上のカードを裏返してゆく。大アルカナの華麗な図像は、フリーダ・ハリスとアレイスター・クロウリーの手になるタロットカード史の古典的名作《トートのタロット》から採られている。

 《法皇》《運命の輪》《隠者》《魔術師》《永劫》《世界》が出揃った。

 女の両手が紫色のデスクトップの一部を、まるでテーブルクロスのように抓み、手品師がシルクハットから鳩や兎を取り出すみたいに、自分自身の顔の覗いた小窗をクイクイとオープンすると、するりとその窗枠のなかに滑り込む。 薄布を端正な顔の前に垂らしたジプシー女がほほ笑み、準備完了の合図にウインクをする。

 彼女が言う――どの巻物を読みましょうか?

 百目鬼はやや考えてから、『歴史』を意味する《永劫》の書の上に指を置き、更に魔法球に向かって、幾つかのキーワードを打ち込んでみる。

 巻物が開き、暫くスクロールさせながら、大本教の栄枯盛衰を辿る。
 
 「……開祖・出口ナオ、組織者・出口王仁三郎……?」覗き込んでいた少年が呟いた。「おじさん、じゃあ、彼の夢に出た《鬼》って……この出口王仁三郎って人のことじゃないかな……」

 百目鬼は頷く。彼は巻物を黙って読み続ける。

……大本教。現在の教団名は《大本》。明治から昭和初期にかけて発生した神道系民衆宗教として、天理、黒住、金光等と並び称される。現在、信徒数約25万人と教団自体の規模は小さいが、大正・昭和の二度に亙る軍国日本による大弾圧の前には、巨大な勢力を誇り、世界宗教的な広がりを持っていた。これは二代目教主・出口王仁三郎のカリスマ的な魅力とそのスケールの大きな行動によるところが大きく、王仁三郎という特異な人物とその思想・預言・行動は、数々の伝説と神秘と謎に彩られ、教団大本を越えて、後世の文学・思想・芸術に大きな影響を与えている。これには初期の大本の持っていた強力な反権力思想と世直しへの激しい希求への強い共感が作用していたと考えられる。教団《大本》とは無関係に独り歩きを始めた出口王仁三郎の像は、双魚暦一九九〇年頃のオカルトブームにあって、新宗教・ポップオカルティズム・ニューエイジ運動等に非常に神秘化された形で受け入れられたのを皮切りに、その後も日本でオカルティズムが流行する度、《出口王仁三郎》の名前が取り沙汰されている。《大本》に源流を持つと自称する宗教団体は夥しく、王仁三郎関連の書籍は莫大に出版されているのに対して、本家本元の《大本》の方は活動・信徒数ともに慎ましいのは奇異な観がある。


 それから延々と大本教の成立についての記述が続いている。

 恐らく、少年の言うようにミケランジェロが大本の信者でないというのは事実だろう。
 だが、その傾倒の程度やレヴェルはともかくとして何らかの出口王仁三郎の信者であったことだけは確かだ。或いは――いや寧ろと言った方がいいだろう、王仁三郎というカリスマ的人物の権威を利用し、またその怪しげな霊感の源泉としながら、ミケランジェロは自分自身を神秘化し、その霊感を権威付け、己の言動と思想のエネルギー源にしていたのに違いない。

 百目鬼は謎を解く鍵は恐らくこの王仁三郎という人物に纏わる伝説にあるのではないかと推理し、《永劫》の書を閉じて、《魔術師》の書をオープンしようとする。

 そのとき、或る単語が突然目の中に飛び込んできた。
   
 ――変性女子〔へんじょうにょし〕。

 「……これだ。」

 百目鬼は遂にその言葉を発見したのである。

 ……大本教のユニークな神観の一つに、ユング心理学のアニムスとアニマを彷彿とさせる『変性男子』及び『変性女子』というのがある。先に述べたような運命的な出会いを経て、王仁三郎を迎え、教団内にナオ・王仁三郎という事実上二人の教主を抱えた大本の内部に激しい思想上の対立が生じた。この対立を乗り越え、共に強烈な個性の持ち主であるナオ・王仁三郎の神観が融合発展していく途上で、『変性男子』及び『変性女子』という概念が発生してきたと考えられる。
 ……ナオに神憑った主神《艮の金神》は国粋主義的排外思想と強烈な反権力思想を持った戦闘的な神で、世直しを前にした大規模な破壊・戦争を避けられぬとする恐るべき終末論的メシアニズムに彩られた、極めて父権的な男性神として、ユダヤ教のヤハウェに似たところがある。ナオにとって、世界に混乱を齎した悪の元凶はスサノオであり、彼女はこの神を邪神と見なしていた。これに対して王仁三郎は、スサノオを高天原の罪と穢れを一身に引き受け、スケープゴートの役を自ら買って出て追放された善神と考え、スサノオを一種キリストのように捉えている。また、王仁三郎には初期から人類同胞主義的な世界観があり、ナオ/《艮の金神》の排外思想や悲観的終末論とは相容れないところがあった。
 ……この対立の融和を図る過程で、父親《艮の金神》に対して、母神《坤の金神》〔ひつじさるのこんじん〕という神的原理がクローズアップされてくる。両者は夫婦神であり、前者《艮の金神》を《厳霊》〔イズノミタマ〕、後者《坤の金神》を《瑞霊》〔ミズノミタマ〕とも呼ぶ。……ナオ/《艮の金神》と王仁三郎/《スサノオ》の対立は、いわば父-反逆児の二つの男性神のエディプス的葛藤として考えることができるが、ここに《坤の金神》という母性的原理が調停役として現れ、《スサノオ》はいわばこの新たに現れた女神を母と認めることによって、改心し、父《艮の金神》の柔順な息子として、更に《坤の金神》という母性的原理の現れとして生まれ変わることになる。こうして、ナオ/《艮の金神》の優位性が確立し、王仁三郎/《スサノオ》は女神《坤の金神》の化身として捉え直され、主神による世の立替え・立直しを補佐する者としての地位を獲得したのである。
 ……ナオは、王仁三郎に憑依した《スサノオ》が改心して、《坤の金神》としての役割に目覚めることによって、第二の、そして真の《天岩戸開き》が行われ、それまで押し込められていた
真の神が現れて表に出され、世界の根本的変革改造が成就するものと考えた。……男神である《艮の金神》の化身であるナオは女であり、女神である《坤の金神》の化身である王仁三郎は男である。このように《変性》していることから、ナオを《変性男子》、王仁三郎を《変性女子》と呼ぶようになった。ナオ・王仁三郎は現実には、母と娘婿(子)の関係であったが、霊的には夫婦と見なされていた。……

 光電窗〔ディスプレイ〕には、《変性女子》らしく、女神《坤の金神》に扮した出口王仁三郎の女装写真が浮かんでいる。なかなかの美女ぶりだ。

 百目鬼と少年は顔を見合わせた。

 「……それで、ミケランジェロは、男の神が女の神になっていることに感銘したんですね」
 少年は溜息混りに言った。
 「性が変わっていることこそ、彼の神の特徴だった。ここの月夜美之命は確かに、その、《変性男子》、つまり女になった男だ……」

 「或いはきみが言ったように、元々は女神だったのかもしれないとすれば、ツクヨミは、『古事記』に現れている姿で既に《変性女子》でもあったのかもしれない」

 「じゃあ、アマテラスは《変性男子》?」

 「まあ、確かにそう言えるね。……アマテラスが性転換した男だったというのは、確かなことらしいよ。元々はアマテルという男性神だったという話がある。恐らく日本の土着神で、《海を照らす者》としての太陽または海蛇の神だったのではないかと言われている。海女たちの神、《海照》〔アマテル〕だよ。それが天照大御神〔アマテラスオオミカミ〕に転じたんだ。……ところで、よく、アマテラスが天皇家の主宰神であり、天津神の系列の筆頭として、スサノオの子孫とされるオオクニヌシたち国津神たちに迫って国譲りをさせたということから、アマテラスを外来神、スサノオを日本古来からの土着神だという俗説があるが、実際にはどうもこれは逆らしいんだ。」