Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭] 
第一章 夜鬼逍遙 3-2 双頭の鳥神

 少年の言葉は続いた。
 「でも一番変わっちまったのは、鳥です。最初は白鳥の頭なんかなかったし、翼も二枚だけでした。色も白くなかった。もっと、普通だった。あれ、鷲だったんですよ!」

 「鷲、水甕を持った人間、牛……ええと、それに何……」百目鬼は思い出すや否や、大きな声で叫んでいた。「……ライオン! -《獅子座》だ!」

 「《獅子座》、ですって?」百目鬼の声に、少年がびっくりして聞き返した。

 「そう、鷲は《蠍座》の象徴、水甕を持った人間が《水瓶座》、金色の牛は《金牛宮》、つまり《牡牛座》だよ!」
 百目鬼は目を輝かせていた。
 「黄道十二獣帯〔ゾディアック〕の四つの不動宮のシンボルだ。天蝎宮〔スコルピオン〕・金牛宮〔タウルス〕・獅子宮〔レオ〕・宝瓶宮〔アクエリアス〕。つまり、元の絵は、エゼキエルの幻視に出てくるテトラモルフを表していたんだよ。四人のケルビムの顔であり、黙示録では神の玉座の脇に控えている四大聖獣として出てくる。《世界の終末》を告げる四つの存在なんだ。そのうち、金牛宮だけが残され、しかも強調されている。何なのかよく分からないが、ミケランジェロは牡牛座を強調したかったんだ!」

 「ミスタ百目鬼、あなた、何座?」
 「ぼくかい? ぼくは、射手座だよ。……君は?」
 「……ぼく、あのォ……乙女座、なんですよ。」少年は恥かしそうに答えた。
 「乙女は牡牛と相性がいい」
 百目鬼は笑った。
 「ところで、その、《ミケランジェロ》は牡牛座だったかどうか、分からないかね」
 「彼、蠍座でしたよ」少年は言った。「自慢してましたから。かっこいいだろうって」
 「それで、アキラ……いや、《鷲》のことをそういうんだけど、これをこんな格好にしたのかな?」
 「それ、彼の言ってた《月の神》だと思うんです」
 「《月の神》だって?」百目鬼が聞き返した。「この鳥は、月を表すのか?」

 「……白鳥じゃない方の頭、鳩みたいでしょう? それ、雷鳥だと思うんですよ。白鳥の方の意味はよくわかんないけど、彼、昔、飛騨の立山って山の地獄谷に住んでたらしいんです。その山で一番高い峰、大汝峰〔オオナジミネ〕の麓の近くを散歩してたら、真っ白な雷鳥が飛んで来て、そのとき不思議な幻覚を見たんだそうです。その鳥が四枚の羽を生やした人の姿になって、自分は遠いエジプトから夜空を旅してきた月の神で、月の山から来たと言ったそうです。月の子を探して世界中の月の山を巡り、出羽の月山を訪ねたが、神様は留守で会えなかった。月の子はきっと日本に来ているはずだと思ってずっと探しているが、太陽が邪魔をしているようで見付けられない、と」

 「変な夢だな……」

 「月の子は、その月の神の兄弟で、人間になっているっていうんです。ひどい死ぬような怪我をしているんじゃないかと心配して捜している。故郷が炎の化け物に占領されて大変なことになった。炎の化け物を倒せるのはその子しかいないのに、先にその子が殺されてしまったら、地球がまた侵略者に目茶苦茶にされてしまう。でも、エジプトにまでその子の悲鳴が聞こえたというんです。それで死者の弔いを部下に預けて慌てて探しに出てきた。そこで彼、《ミケランジェロ》に、どこかで留守中の月山の神を見かけたら、『弟をくれぐれもよろしく頼む』と伝えてくれと言ったそうです。」

 「でも、《ミケランジェロ》も変な人だな。立山の地獄谷なんかで何してたんだろう」 

 「彼の信じている神がきっとそこにいると思って毎日山を渡ってたそうです」
 少年が答えた。
 「その前には白山にいたそうです。彼は天孫降臨の地に本当の神がまだ隠れているに違いないと長く思っていた。白山がそうだと思っていたら、菊理媛〔ククリヒメ〕の使いという男が夢枕に立って、『神様のお名前から察するに、地獄にいらっしゃるに違いないが、残念ながら白山に地獄はない。同じ《大汝峰》という名前の峰のある山が別にあって、そこには地獄もあるというから、訪ねてみよ』と言われた。それで、立山がそうだと分かって随分居座ってたそうです。それでも答えが出ないでいた。……で、そのエジプトから来たという神様に、『わたしも自分の神様の行方が分からないのでここに捜しにきている、あんたもどうやら同じらしいから、どうやら同じ神を捜しているようだ』と言った。そしたら、そのエジプトの神様が、ちょっと首を傾げたそうです。それから少し考えてから、こうおっしゃった。-『それならきっと留守中だった月山の神がおまえの神に違いない。その神が地獄にいるというのなら、こんなところじゃなくて、本当の地獄を捜せばいい。わしもエジプトで住み慣れた家を離れ、地獄で毎日忙しかったから、その神様もきっと同じことをなさっている筈だ。それじゃあ、後は任せたよ。』-それだけ言うと神は夜の道を通ってエジプトに帰っていったそうです。」

 「ふーむ」百目鬼は顎を撫でた。「なかなか興味深い話だ……。それで彼はここに来たのだね」

 「そうです、ここは《地獄》、日本で最悪の場処といわれてますから……。つまり彼のいう《艮〔ウシトラ〕》、鬼神の出入りする冥府からの《門》に相応しかったんでしょう」

 「《ババロン》か……」百目鬼は、悪名高い旧新宿区一帯の俗称を口にした。

 それは偶々《高田馬場》という地名に注目した或る外国人ジャーナリストが、《バビロン》に引っかけてつけた仇名だったが、今では《新宿》という名称を凌いで有名になってしまった。ババロン、それにババリア、そこに住んでいる者達を称しては、《バーバリアン》とさえ言われる。野蛮人〔バーバリアン〕たちの土地ババリア、その中心地ババロンとは、確かにこれら一連の名前の語源となったここ《高田馬場》こそが相応しいだろう。