Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭] 
第一章 夜鬼逍遙 3-1 ディアーナの沐浴

 アクタイオーンは、アルテミスの沐浴を偶然見てしまったために雄鹿の姿に変えられ、自分の夥しい猟犬の群れに引き裂かれて死ぬ。
 アルテミスは矢を射なかったが、直接アルテミスの手に懸かるよりももっと悪い死に方が、この聖域を侵した男に降り懸かったのだ。
 アルテミスはアクタイオーンに水を撥ね掛け、呪いとも挑発とも嘲りともつかぬ言葉を発する。
 《全裸のわたしを見たと言い触らしてごらん。但し、それができるというのならね!》 
 この言葉が、鹿を狩る者アクタイオーンを狩られる鹿に変えてしまう。姿を変えられたばかりではなく、言葉も声にならない。アルテミスの裸を見たと言うどころか、自分の飼い犬どもに食い千切られながら、《おれはアクタイオーンだ、おまえたちの主人だ》と叫ぶことさえできない。

 アルテミスが沐浴していたように、パールヴァティーも沐浴していた。
 シヴァには沐浴中の女神の裸体を見る権利があった。だから門番ガネーシャは殺されねばならなかった。
 しかし、もし、シヴァに夫の権利がなく、パールヴァティーがヴィシュヌの家で沐浴していたのなら、ガネーシャが殺されるいわれはなくなる。むしろシヴァこそが殺されねばならなかった筈だ。

 壁画の作者は、シヴァの死体をアクタイオーンとして示すことで、シヴァから最後の抗弁の機会さえ奪っているようにみえる。
 《おれはシヴァだ。おまえたちの主人だ》と言う声さえも奪われて。シヴァの《飼い犬》である筈のガナデヴァタの夥しい神々が襲い掛かる。門番ガネーシャにけしかけられて。声の黙殺と体の虐殺、そして存在自体の抹殺。

 つまり、これが咎なのだ。女神の裸体を見ようと聖域に押し入ること、女神の純潔を侵犯しようとすることこそが。
 シヴァは夫でも父でもなく、見知らぬ不届きな涜神者に過ぎない。ガネーシャの正当性は完全なものとなる。

 アクタイオーンは、考えてみれば、テーバイの建設者カドモスの孫だ。

 テーバイはカドモスの退治した《軍神マルスの大蛇》の《歯》から生まれた都市国家。
 その《歯》は《人間の種》といわれた。カドモスは大蛇を倒した後、謎の声を聞いている。
 《アゲノールの息子よ。どうしてそんなに殺した蛇を見ているのか。おまえもいつか蛇の姿を見られるぞ》と。

 つまり、カドモスは、シヴァと同じく《蛇》だったのだ。
 アクタイオーンとシヴァは確かに象徴の上からも繋がっている。

 だが、残りのあの二頭の獣は、白虎と金色の牛は、何を意味するのか。

 虎はドゥルガー女神の乗物、牛はシヴァの乗物だ。
 また、アクタイオーンの祖父カドモスが、そもそも故郷のシドン市を離れたのは、牛に化けたゼウスに攫われたエウロパを探してのこと。ゼウスは白鳥にも化けたことがある。

 ……白虎といえば、中国で、方位を表す四聖獣の一つだ。北の玄武、南の朱雀、東の青龍、西の白虎。白鳥と朱雀を同じだとは考えやすい。
 すると金色の牛が東の青龍、アクタイオーンが北の玄武を表す。

 青龍と玄武はともに《蛇神》だから避けられたのか……色々考えてみても、どの候補も今ひとつ「これだ!」という感触に欠けていた。

 「ねえ、きみ」遂に百目鬼は傍らの少年に声を掛ける。「あの虎と牛にはどういう意味があるんだね」

 少年は少し俯いてから答えた。「……方角を意味してます……」

 「方角……」すると牛が東ということか。成程、確かに、この路線は昔《東西線》といったそうだが……だが、それでは水平方向の獣の位置が反対だ。百目鬼は訝った。本来なら虎と牛の位置が逆でなければおかしいぞ。

 「よく、分からないな」

 「……《鬼門》です。」少年は躊躇いがちに言った。「ミスタ百目鬼、あなたの名前に《鬼》の文字があるから、特別にお教えするんです。いいですか。ほんとは方角なんかじゃない。……あれは《鬼門》を意味するんです。」

 「鬼門……ウシトラ……東北か!」百目鬼は思わず叫んだ。「でも、一体、何故?」

 「ミスタ百目鬼、あの絵は、実は彼が勝手に描き直したんです……あの下の方の四匹の獣は、最初はああじゃなかったんです。どういう意図があったのか分かりません。彼はあの獣たちをこっそり描き直して、その後、あそこから墜ちて死んだんです。」
 「最初はああじゃなかった?」
 「ええ……牛は確か最初からああでした。牛だけが元の形のままです。でもあんなに金ピカじゃなかった。見て下さい。下の四匹のなかでやけに目立っているでしょう?」

 確かに、言われてみればその通りかもしれなかった。

 「虎は最初はライオンだったんです。下の人間、最初はあんなヘンな仮面つけていなかったし、槍で刺されてなんかいませんでした。それに手に水甕を持ってた。それが、ほら、見て下さい。男の頭のところで割れて、水が溢れ出している……」

 これには気付かなかった。アクタイオーンの鹿の頭が枕のように敷いている粉々に砕けたものは、確かによく見ると何かの容器の砕片のように見えなくはなかった。