円の中心と周縁は半径(radius)によって引き離されている。
そこで0を中心とし、無限を円周とする円を考察してみることにする。無限はここで当然ながら半径のなかに、おのれ自身と中心〈0〉との間=距離として転写されて数量化する。
そこで、円の構造を考えてみる。
円の面積を与える式にあっても、円周の長さを与える式にあっても、そこには必ず半径の他に、π(円周率)という奇妙な定数が出現する。これは球の体積や外面を算出する式においても、また、n次元以上の〈超球〉を考えるときにあっても、必ず出てくる数である。
あらゆる数の次元において、円の類比物(球や超球)を考えることができる。逆に、円は実は2次元における球体であるに過ぎない。わたしは数学には全くの門外漢であるが、次のことだけは分かる。球体の構造式は、それが何次元であるかに拘わらず、それに超越的に成立しているはずである(球体の体積R= π×半径rのn乗)。
だが、これを考えることはクレイジーだ。半径無限大の球体はそれが何次元であっても、その次元を必ず爆発させてしまう。それは一種のノヴァに似ている。すると後にはπしか残らないだろう。
このπは一体何なのか――これが恐らくわたしの追求している形而上学的風そのものなのではないだろうか。
* * *
風のπ(円周率)はゼロの超新星にノヴァをもたらすようにみえる。
Rという球体の体積は空間の概念に対応し、rという半径は延長及び連続的距離([希]diasmata)に対応する。すると円周率のπとは、空間=体積であるRを連続的距離=半径rのn乗(累乗)で分割したものである。
累乗というのは、ドゥルーズがアリストテレス『形而上学』を念頭に置きながら、スピノザを経由して〈力能〉として捉え返したものである。
空間の次元数にあたるこの力能=累乗は、アリストテレスの可能性=潜勢態(デュナミス [羅]potentia)の概念を狙っている。力能によって累乗化された連続的距離は、円周率πによって空間=体積Rへと現勢化する。Rは充実した物体であることもあれば、それが脱去った空間でもあることだろう。
πが隠喩しているのは、この様態変換を触発する出来事である。
すなわち、風というπが到来する出来事によって、何か潜勢態にあるものが現勢態に変換されるのである。
それは〈もの〉を出来させる。しかるにπは定数である。したがって、このπこそが球体の形相であるといえるだろう。
さて、恐らくわれわれはそれを球とも円とも呼んでいないが、一次元的な球体というものが考えられる。
それはR=πrという構造式で表せるような何かである。しかしこれは実現不可能な球体である。球体の形相πは一次元では球を形成することができない。それは恐らく奇妙な潰れた線であるということしかできない。それは円周と体積がべったり貼りついて互いに相手を引き離すことのできない状態であることだろう。
しかし、われわれは今はこれ以上この問題に深入りすることは避けよう。機会あれば、改めてここから分岐する思考の方角を探索することにしたい。現在のわれわれの探究において、いま、おぼろげに浮かび上がってこようとするものを確認することが先決問題であり、それをまだ確定しないうちに先に進むことは慎むべきことである。
われわれは少なくとも次のことを確定する事はできる。
ゼロと無限は、1、2、3、4……のような自然数が数であるような意味においては数であるとはいえない。それは数えられない数である。
ゼロは無限と一緒に生起する数空間全体の場の発生であり、それゆえに恐らくゼロは単に座標軸の原点であるのみならず、その座標空間の全体でもあるのだ。
ゼロはしたがって数空間の全体性の定位である。
したがって全ての数は、無と無限、0と∞の間に有限者としてあるといえるが、そのように数に場を与えているのは、この〈間〉或いは〈隙間〉としてのゼロの働きであるといえる。
ところで、あらゆる数は0に根付いているといえるが、それはゼロから延びている有限な線分であるということ、つまり数は半径であるということである。
数は半径としておのれ自身を0からの距離の度合([羅]modus:度)として示す。0はあらゆる数の基準であり、その意味の基盤である。
0との関係を通さなければ、実はいかなる数も数値を持ち得ない。数をして数たらしめているのは実は0であり、あらゆる数はその半身として0を伴っているのである。
数は、したがって、0に呪縛されており、0から脱出することの不可能性としてある。さもなければそれは位置づけを失い、蒸発する他にないだろうからである。
あらゆる数は0と無限という双面をもった無限のゼロ(0=∞)の内側にあるといえる。そして、数の〈実体〉とは紛れもなくこのゼロ=零である。
全ての数は、このゼロ=零という〈実体〉を分有(participatio)することによってのみ存在しうる。
ただし、既に出たπと、そして1については、なおこの些か性急な断定を留保させるような何か別のものが感じられる。
πには既に述べたようにこの無限の無である0を外へと逸脱して破裂せしめる過剰な風の力が宿っている。
他方、1もまたπと共に、ゼロの繰り広げる恐るべき双面の零の空間に呑み込まれ、拉し去られてはいるが、本来的には零(0=∞)にとっては外異的でなければならない。
【付記】
数1については何故外異的であるのか今後更なる考察と論述の余地あり。
外異的であるのは、もし単位としてのこの1がなければ、そしてこの1と0との間の距離がなければ、他の数が成立することがないからである。
1は最初の定数として0の繰り広げる数空間に侵入している。そして、そのことによって、本来的に数えられない数である0をあたかも数えられる数であるように変換する。
0と1とで2つの数となる。こうして、2が生成する。
他の自然数は、基本的に〈反復〉によって生ずる。
ざっと以上のことがメモされるが、考察がまだ行き届いていないので、一旦は措くことにし、別の機会に改めて論じてみたいと思う。
。。でも、いつのことになるやら。。(嘆)
なお、この考察では、πが風を、0が風の置き忘れていった風の抜け殻としての虚無的な他者性を、そして1が自己あるいは存在者を暗黙に意味している。
そこで0を中心とし、無限を円周とする円を考察してみることにする。無限はここで当然ながら半径のなかに、おのれ自身と中心〈0〉との間=距離として転写されて数量化する。
そこで、円の構造を考えてみる。
円の面積を与える式にあっても、円周の長さを与える式にあっても、そこには必ず半径の他に、π(円周率)という奇妙な定数が出現する。これは球の体積や外面を算出する式においても、また、n次元以上の〈超球〉を考えるときにあっても、必ず出てくる数である。
あらゆる数の次元において、円の類比物(球や超球)を考えることができる。逆に、円は実は2次元における球体であるに過ぎない。わたしは数学には全くの門外漢であるが、次のことだけは分かる。球体の構造式は、それが何次元であるかに拘わらず、それに超越的に成立しているはずである(球体の体積R= π×半径rのn乗)。
だが、これを考えることはクレイジーだ。半径無限大の球体はそれが何次元であっても、その次元を必ず爆発させてしまう。それは一種のノヴァに似ている。すると後にはπしか残らないだろう。
このπは一体何なのか――これが恐らくわたしの追求している形而上学的風そのものなのではないだろうか。
* * *
風のπ(円周率)はゼロの超新星にノヴァをもたらすようにみえる。
Rという球体の体積は空間の概念に対応し、rという半径は延長及び連続的距離([希]diasmata)に対応する。すると円周率のπとは、空間=体積であるRを連続的距離=半径rのn乗(累乗)で分割したものである。
累乗というのは、ドゥルーズがアリストテレス『形而上学』を念頭に置きながら、スピノザを経由して〈力能〉として捉え返したものである。
空間の次元数にあたるこの力能=累乗は、アリストテレスの可能性=潜勢態(デュナミス [羅]potentia)の概念を狙っている。力能によって累乗化された連続的距離は、円周率πによって空間=体積Rへと現勢化する。Rは充実した物体であることもあれば、それが脱去った空間でもあることだろう。
πが隠喩しているのは、この様態変換を触発する出来事である。
すなわち、風というπが到来する出来事によって、何か潜勢態にあるものが現勢態に変換されるのである。
それは〈もの〉を出来させる。しかるにπは定数である。したがって、このπこそが球体の形相であるといえるだろう。
さて、恐らくわれわれはそれを球とも円とも呼んでいないが、一次元的な球体というものが考えられる。
それはR=πrという構造式で表せるような何かである。しかしこれは実現不可能な球体である。球体の形相πは一次元では球を形成することができない。それは恐らく奇妙な潰れた線であるということしかできない。それは円周と体積がべったり貼りついて互いに相手を引き離すことのできない状態であることだろう。
しかし、われわれは今はこれ以上この問題に深入りすることは避けよう。機会あれば、改めてここから分岐する思考の方角を探索することにしたい。現在のわれわれの探究において、いま、おぼろげに浮かび上がってこようとするものを確認することが先決問題であり、それをまだ確定しないうちに先に進むことは慎むべきことである。
われわれは少なくとも次のことを確定する事はできる。
ゼロと無限は、1、2、3、4……のような自然数が数であるような意味においては数であるとはいえない。それは数えられない数である。
ゼロは無限と一緒に生起する数空間全体の場の発生であり、それゆえに恐らくゼロは単に座標軸の原点であるのみならず、その座標空間の全体でもあるのだ。
ゼロはしたがって数空間の全体性の定位である。
したがって全ての数は、無と無限、0と∞の間に有限者としてあるといえるが、そのように数に場を与えているのは、この〈間〉或いは〈隙間〉としてのゼロの働きであるといえる。
ところで、あらゆる数は0に根付いているといえるが、それはゼロから延びている有限な線分であるということ、つまり数は半径であるということである。
数は半径としておのれ自身を0からの距離の度合([羅]modus:度)として示す。0はあらゆる数の基準であり、その意味の基盤である。
0との関係を通さなければ、実はいかなる数も数値を持ち得ない。数をして数たらしめているのは実は0であり、あらゆる数はその半身として0を伴っているのである。
数は、したがって、0に呪縛されており、0から脱出することの不可能性としてある。さもなければそれは位置づけを失い、蒸発する他にないだろうからである。
あらゆる数は0と無限という双面をもった無限のゼロ(0=∞)の内側にあるといえる。そして、数の〈実体〉とは紛れもなくこのゼロ=零である。
全ての数は、このゼロ=零という〈実体〉を分有(participatio)することによってのみ存在しうる。
ただし、既に出たπと、そして1については、なおこの些か性急な断定を留保させるような何か別のものが感じられる。
πには既に述べたようにこの無限の無である0を外へと逸脱して破裂せしめる過剰な風の力が宿っている。
他方、1もまたπと共に、ゼロの繰り広げる恐るべき双面の零の空間に呑み込まれ、拉し去られてはいるが、本来的には零(0=∞)にとっては外異的でなければならない。
【付記】
数1については何故外異的であるのか今後更なる考察と論述の余地あり。
外異的であるのは、もし単位としてのこの1がなければ、そしてこの1と0との間の距離がなければ、他の数が成立することがないからである。
1は最初の定数として0の繰り広げる数空間に侵入している。そして、そのことによって、本来的に数えられない数である0をあたかも数えられる数であるように変換する。
0と1とで2つの数となる。こうして、2が生成する。
他の自然数は、基本的に〈反復〉によって生ずる。
ざっと以上のことがメモされるが、考察がまだ行き届いていないので、一旦は措くことにし、別の機会に改めて論じてみたいと思う。
。。でも、いつのことになるやら。。(嘆)
なお、この考察では、πが風を、0が風の置き忘れていった風の抜け殻としての虚無的な他者性を、そして1が自己あるいは存在者を暗黙に意味している。