しかし、ゼロとは一体数量であるのか?

 この得体の知れないゼロ、無限の無は加減計算において何の意味ももたない。
 例えば、3に0を足すこと、或いは3から0を引くことにおいて、3にはいかなる変化も観測され得ない(3+0=3-0)。
 とはいえ、加算においては対称性がある。つまり、3に0を足すことと0に3を足すこと(合成)は同じ意味である(3+0=0+3)が、減算においては非対称性がある(3-0≠0-3)という差異は観測されるだろう。しかしながら、その場合においても、正負の符号が反転する(+が-になる)だけであって、3の自然数的で直観的に明晰な観念自体には変化はみられない。ただ0を中心にして、3が正領域から負領域へと点対称的に反対側へと置換えられるだけである。

 無論、わたしはここで算術についておさらいをしているのではなくて、そのことから得られる形而上学的な零の意味を解明しようとしているのである。

 量的な解は計算から出てくるが、その質的な意味についての解は形而上学的な思考によって創出しなければならない。算術はそのためのメタファーである。

 さて、先の思考実験の結果分かるのは、加減の場合において、存在者〈3〉は、その自己同一性(〈3であること〉)に何の変質も蒙らないということである。
 
 もっとも、3に0を足したり、3から0を引いたりすることは、実際には計算することであるとはいえない。それはむしろ計算しないということである。すなわち3+0というのは、3に0を実際に加えるというのではなくて、3に何も加えないということであり、0-3というのは3の符号を単に逆にするというより、それ以下であることは式を見れば分かる。つまり3は既にマイナス3として明示されているのであるから、やはり0からは何も引かれないのである。

 つまり、加減算の式のなかで、単独の数値としての0は単に省略=除外され、間引かれ、飛び越されてしまう存在に過ぎないのだ。

 恐らく、共に古代インドに起源をもつという異質な数、0と∞は、加減算の思考の秩序には本来合わない数、外異的な数なのである。

 ところが、乗除の計算においては事情が変わってくる。
 3に0を掛けると解は0、つまり3は消滅して0の中に吸収されてしまうが、それはまるで3がブラックホール(無限小)に呑み込まれたかのような観を呈するのだ。
 他方、0を3で割ると0、0はこのとき分割不可能な数として3の前に立ちはだかり3を無意味化してしまう。
 そして3を0で割ると∞の無限大が姿を現す。つまり3は無限大の分割にさらされて炸裂的に崩壊してしまうのである。

 乗除の計算において、わたしたちは初めて0の特異性に直面する。それは0としての0の顔前に引き出されるのだといってよい。或いは、触れば灼けつくように熱い、燃える石のような0の体を把握するのだといってもよい。
 また、わたしたちは、0において初めて無限としての無限の生の姿に出遭う。0は数空間の〈中心数〉であり、無限はその不可能性の〈周縁数〉であるといってよい。
 0と無限の両者はちょうど円の中心点と円周のように不可分に結合しあっている。

 中心がないなら円周は崩壊する。 
 0はあらゆる数を自分と無限との間に置くことで、数の全体を包括的に基礎づけている。