風は恐るべき純粋な無/切断の爆発である。一瞬、全き虚無が万物をその黒よりもはるかに深い暗黒の中に消し去り、絶滅し尽くす。虚無の太刀の閃きが全てを覆し断滅させてしまう。風位としての風位はあらゆる定位に先行する定位の定位である。
 
 風は純粋な破壊である。
 破壊=創造の白きカタストロフィの〈内〉に森羅万象が一挙にして略奪され、形相も質料もない恐るべき完全虚無のなかに突き落とされ、消え失せる。
 それは、しかし、〈時空〉が、〈次元〉が創造される瞬間である。
 この意味で、風の瞬間、刹那滅は、時間そのものに完全に先行している。
 それは決して現在とはならない〈今〉である。

 この〈今〉、〈何処にもないこと〉が位置づけ自体の位置づけ、何処にも無い〈何処自体〉として絶対的に定立される。

 全てを吸着して消滅させる白きカタストロフィは、それ自身を翻して爆縮し、広がりをもたぬ形而上学的重力崩壊星、いわば〈否のブラックホール〉を形成する。

 白きカタストロフィは〈至るところ〉の無限を一挙に完全に定立するその絶対根拠であり、否のブラックホールは〈今ここ〉の背後の拒まれた〈今ここの今ここ〉として、それを背後から重力的に呪縛する絶対根拠である。

 しかし、この両者は、一陣の風の通行ただそれだけによって創造されてしまう還元不可能な〈実体の実体〉、すなわち〈何処自体〉という形而上学的原定位あるいは形而上学的絶対零度の双面であるに過ぎない。

 白きカタストロフィへの炸裂と否のブラックホールの爆縮は、表裏一体、不可分離的に、風の絶対零度の特異点に結束してしまっている。

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 風の無根底性は、〈風穴〉という〈風位〉それ自身の内への驚くべき筒抜性の観念を与える。
 この〈風穴〉の観念に一番近いものは恐らくエッダに描かれるギヌンガガップの真空である。風は〈風穴〉という宇宙のピンホールであり、瞬間それ自身の内を通り抜ける瞬間である。それは、無限としての無限を啓示する。

 絶対無であるといえる風の風位=風穴の開示する〈何処自体〉は、無限大(至るところ/白きカタストロフィ)と無限小(今ここ/否のブラックホール)の双面に分解する以前に、無限大でも無限小でもない無限の無、無限の絶対零度の、いかなる意味でも表象不可能な核(コア)の観念を与える。

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 風核という風穴の不可能性の核心に結実する、無限大でも無限小でもない無限の無、この風の絶対零度は、ゼロとしかいえない。
 このゼロに無限小と無限大は属している。無限大はこのゼロの不可能性の中心として、そして無限小はこのゼロの不可能性の限界として。
 両者は、このゼロに、いわば超新星爆発的に結合しているといっていい。
 つまり、逆にこのゼロは超新星(NOVA)なのである。

 ゼロの超新星爆発は、宇宙=空間(space)を与える。現代物理学でいうところのビッグ・バンは、宇宙=空間の出現以前に得体の知れない超新星が「あった」ことを前提=仮定してしまう。これは不可避的である。

 ゼロとは、このように消滅=爆発してしまった〈星〉であり、ノヴァであり、恐らく、厳密にブランショのいうような意味においての還元不可能なデザストル(désastre 災厄=堕星)なのだ。それは、言い換えるなら、われわれはこの初源の星から絶対的に切り離され、追放されて〈外〉にいるといえると同時に、その〈内〉に脱出不可能に呪縛されてしまっているということである。
 ブランショは恐らく、わたしと殆ど同じポイントに遭遇してしまっている。