【1】〈不可能であるが故に非在する〉という思考の声に、その者は何かと最初の反問を行なう最初の他なるもの、最初の他者は不可能なものそのもの、不可能性自体である。
 不可能性自体であるこの最初の他者は、〈非在するというそのわたしは誰か〉と問いかけている。思考はこれに直接的=対面的〔ダイレクト〕には答えられない。

【2】不可能性自体を〈おまえは〉として呼びかけ可能な〈誰か〉として、あるいは〈何か或るもの〉として応対することは、〈考えられないが故にありえない〉という自ら己れに課した掟、すなわち背教的否認の自戒、背視の禁断を破戒することになる。
 それは、背教の否認された定位であるアポスターズを認めること、背きの撤回である〈転回〉つまりエピストロフィ(epistrophe)を行なうこと、却って自分自身に背くこと=自己矛盾、自己撞着を来たすことを帰結する。

【3】背教の撤回であるエピストロフィ(epistrophe)は、第二の背教の定位である〈自己背教〉として、「矛盾(contradictio)」の原概念、反対面=反位相(アンチフェーズ antiphase)を与える。

【4】この原矛盾対立である反対面=反位相(アンチフェーズ antiphase)は、肯定(カタファシス:肯定判断ないし肯定すること kataphasis)と否定(アポファシス:否定判断ないし否定すること apophasis)の以前に、或る禁じられた行為として〈反対すること〉(アンチファシス:antiphasis)があったことを意味する。これは自己矛盾であり、自分の〈主張〉(ファシス:phasis)に反して、顔(フェーズ:面=相 phase)を翻し、覆し、裏返しにしてしまうことを意味する。しかし、この自己矛盾は自己否定ではない。否定と肯定はまだ可能ではないからである。矛盾は、それについて否定も肯定もなしえないこと、不可能性である。不可能性についてはそれを禁断し棄却する他に何もなしえない。

【5】エピストロフィ(epistrophe)を禁止しなければならないのは、必然的である以前にその必要性があるからである。必然性は必要性に先立たれ、かつそれに駆られて生ずる。必然性は矛盾すること(antiphasis)の禁断と棄却のなかに〈他に何もなしえない〉〈以外に何も不可能である〉こととして、矛盾律と共に不可能性から生ずる。

【6】矛盾律の内への思考の定位と、思考の内的定位である自同律への定位は区別されねばならない。両者は同時的でなく、いやむしろ同一平面上にないものである。二つの定位は起源を異にし、全く切り離されたところで別個に生じる。

【7】矛盾律の内への定位は、自同律の内への定位に先行する。
 それは、矛盾律こそが、思考にとって最初に確立された第一原理であることを意味する。矛盾律は自同律がまだ生まれないところで既に存在している。すなわち、必然性は明証性に先行するのである。
 自同律は、思考の内的定位から実体の観念の明証性として生まれる。
 その一番有名な、また洗練された定式として知られるものは、《Cogito, ergo sum》(われ思う故にわれ在り)である。
 この言葉はデカルトにその起源を帰されるべきものではない。むしろ同一の発想が古くパルメニデスの思想とよばれるものの根底に横たわっていることを認めるべきである。
 すなわち、思考と存在の一致=同一性が〈真理〉であるとの真理観がそれである。この伝統的な真理観に沿っていうなら、〈真理〉とは同一性、自同律の異名であるに過ぎない。
 デカルトの懐疑は、この思考と存在の同一性を切り離すこと、すなわち〈真理〉を切断・破壊することによってしか始まりえないものであった。彼はまさしく自同律の真理性それ自体を疑ったのである。このようなデカルトが見出したコギトの明証性は、古典的な哲学の護持しつづけてきた〈真理〉の明証性、換言すれば、〈存在〉の自明性とは異貌のもの、ついには決して相容れぬものであったとしかいえない。
 彼が果てしない懐疑の末に見出したのは、何かしら思考の全能にいたるような勝ち誇る絶対精神ではない。むしろデカルトは懐疑の果てに疲れ果てることによって、疲れ果てて倒れるこの崇高で孤独な疲労の力によって、ヘーゲルのようなものが夢見る〈真理〉という名のみにくい夢の呪縛を引き裂いたのである。
 そのとき、彼が見出したのは、思考によっては決して創り出しえないもの、すなわちこの美しい現実であった。
 シモーヌ・ヴェイユは言っている。「夢からぬけ出すためには不可能に触れることが必要である。夢のなかには、不可能はない。ただ、無能力があるばかりである。」(『重力と恩寵』ちくま学芸文庫版P162 田辺保訳)と。