Quis vero alienus nisi apostata angelus vocatur?
           異端の天使に非らずして誰が真に他者と呼ばれるか。
                  グレゴリウス教皇『モラリア』12-36

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 アポスターズ(背教 Apostase)というのは、エマニュエル・レヴィナス(1905 -1995)が1947年に書いた初期論考『実存から実存者へ』で展開した主体性の定位論におけるイポスターズ(様相変換・位相転換・基体化 hypostase)論を念頭に置き、これに対して言われている。アポスターズが意味するのは、いわば「実存者から背教者へ」というべき思考主体の様相=表情の変換の問題である。

 それはレヴィナス的なメシア的実存を、恐るべき背教の救世主サバタイ・ツヴィ( Shabbetai (ben) Zbhi 1626-1676 サバタイ派、デンメ派。「偽メシア」)を生み出すような仕方で転倒していくような思想の転換と軌を一にしている。そしてこのサバタイ・ツヴィの名の下に、レヴィナスによって「裏切者」呼ばわりされた破門の哲学者スピノザと、サバタイ・ツヴィを主人公にしたザッヘル・マゾッホの小説に言及した忘れがたい書物「マゾッホとサド」を著し、そしてまるでレヴィナスと対消滅するように、1995年の冬に飛降自殺した偉大なスピノザ主義者ジル・ドゥルーズの名が不可思議な系譜学によって結び付けられていることを告げておく。だがここではこの背後に隠れたモチーフについてはそれがあることを告げておくだけにしよう。


【背教の先行者レヴィナスの背中を見て思うこと】

 さて、『実存から実存者へ』でレヴィナスは、非人称のイリヤ(il y a)といわれる中性的な〈存在者〉( étant )から倫理的な思考主体である〈実存者〉( existant )が如何にして出来するかを描き出している。しかしこれは必ずしも明示的に描き出されているのではない。

 非人称のイリヤは、存在(être)ではなく存在者(étant)なのであるが、それにもかかわらずそれがまるで逆であるかのような錯覚を起こさせる書き方をレヴィナスは意図的に戦略的に用いているからだ。
 そこにはレヴィナスの黙示録的語調の問題が介在しているのだが、ここではそれがあることだけを指摘するに留めておく。

 『実存から実存者へ』は、同じ1947年に発表されて、当時実存主義の思潮に湧いていたフランス思想界を騒然とさせた、ハイデガーの『ヒューマニズムについて』に対し、レヴィナスが取った反応、すなわち彼の背教の決意表明だった。

 レヴィナスは戦前、いちはやくフランスにハイデガーの存在論を紹介した人物であった。
 彼のこの論文と、そして、もうひとり、非常に重要な存在である九鬼周造の媒介によってハイデガーを知ったサルトルは、戦後、これを換骨奪胎して独自の主体性の哲学を立ち上げ、これを「実存主義」と名づけた。そして『実存主義はヒューマニズムである』という有名な講演を行なった。
 これに対する本家ハイデガーの反応は冷たかった。『ヒューマニズムについて』とは、要するにサルトルの人間中心主義的な実存主義はヒューマニズムだからダメだという否定である。

 これに対し、サルトルは怒らなかったが、レヴィナスが代わりに怒った。
 彼はハイデガーが批判したような人間中心主義的な傾向性によってハイデガーを解釈しそれをフランスに紹介して実存主義を誕生させたまさにその立役者だったからである。そんな彼にとって、師匠筋のハイデガーよりも、弟子筋にあたるサルトルの方がはるかに大切だったのである。
 だからこそ、彼はハイデガーに背教し、そしてこの倫理主義的背教の定位イポスターズによって、レヴィナスは本当にレヴィナスになった。つまり単なる知の翻訳者ではなく、独自の思想家に変貌を遂げたのである。
 僕はこの変貌の大きな動機をレヴィナスのアウシュヴィッツ体験とハイデガーのナチズム加担にのみ求める向きに反対である。確かにそれもあるにはあったかもしれないが、僕にはそのように通俗的なレヴェルでレヴィナスをユダヤ的な余りにユダヤ的な思想家として解釈し過ぎることは、何よりも僕たち日本人自身にとって非常に良くないことだと思っている。
 敢えて言うなら、レヴィナスの思想の特徴を良く知りもしないユダイズムに還元して事足れりとすることは、単に安っぽいのである。それはレヴィナスを批判したつもりになっているもの、あるいは擁護したつもりになっているものも全く同断に言語道断の浅薄漢なのだ。
 むしろ、レヴィナスの背教の大きな動機は、ハイデガーに対するサルトル擁護にこそあったのだと考えるべきである。
 レヴィナスのユダヤ主義者としての政治的自覚(政治的と敢えて言おう)は、このハイデガーへの背教の後、むしろ背教の結果として起きた事でしかないと僕は考える。レヴィナスのフランスへの帰属意識は、実際にはよく知りもしないユダヤ教の伝統への帰属意識より深かったのだ。少なくとも1947年の段階では。 だが、今は僕が背教しなければならないこのレヴィナスのことは措く。


【僕自身の〈背教〉について】

 ここに背教の定位アポスターズというのは、この偉大な思想的背教の師レヴィナスの倫理主義と「他者」の思想に対して、更に背教を試みようとする僕の思想の出発点を確かめようとする行為である。
 これもまた、レヴィナスの〈実存者〉の定位であるイポスターズ論と同じく、思考主体の定位の問題を扱うものだが、これはレヴィナスが拒絶した方向に向けて敢えて行なわれるものである。それはいわば魔術的実存主義を創造しようとする悪魔主義的な企てであって、レヴィナスに背教するのは勿論であるが、それは決してハイデガーの存在の真理に戻ることを意味しない。

 第一哲学は美学である、これが僕のテーゼだからである。

したがって、僕はここに、ハイデガーの「有難迷惑」で恩(ON【希】存在)着せがましい存在〔ぞんざい〕で尊大な語調の存在論と、レヴィナスの自他端〔じたばた〕と恥ずかしい、「汝殺す勿れ」などと実に勿体振った語調の出来損ないの倫理学に対し、ここに黙示録的語調において、形而上学的最終戦争の宣戦を布告するのである。

 ここがハルマゲドンだ。ここで戦え!

 このアポスターズ論は、その妖しいメギドの戦火の最初の火花を帯びている。

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