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 世界の世界性以前に、原初的自然としかいいようのない存在せざる〈もの〉、換言すれば発見(脱隠蔽化/啓示)されざる次元は、恐らくあったとしかいいようがない。それは存在なき存在者としかいいようのない存在の一義性の狂気の次元である。存在の一義性においては、万物は存在者としてみる限りにおいて完全に無差異未分化な〈のっぺらぼう〉(埴谷雄高)としかいいようがない。

 ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性をつきつめて考えてゆけば、全ては完全に無差異の一元へと殲滅(ex-terminate)されざるを得ない。一義性において存在をみるとき、そこには個性は全くありえない。あるのは、サルトル=ロカンタンが戦慄した存在のカオスでしかない。或いはパルメニデスの〈存在は存在する〉というのっぺらぼうの球体=一者(ον)でしかありえない。或いはまた、レヴィナスを怯えさせたような非人称のイリヤ(il y a)の暗黒夢であるとしかいえない。というより、これらの思想が描写しようとしてその表をまさぐり何か必然的に思考空転せざるを得ない、つかみどころのないヌルリとした恐ろしい観念に遭遇するしかないのだ。

(※付言すれば、ラヴクラフトはこの存在論的恐怖について最も鋭敏な感性をもった作家であった。彼の語る邪神たちは皆、レヴィナスの語るイリヤの夜の産物なのであり、神話学的にではなく哲学的に解明されなければなならない代物だ。ことにクトゥルーとナイアルラトホテプにはその性質が強い。この点でラヴクラフトは単なる恐怖作家ではなく、或る意味ではポオよりもはるかに一層、真剣な哲学的議題において取り上げられ論議されなければならない重大な作家なのである。どうもそのようには評価されていないようではあるが。)

 柄谷行人は、『探求Ⅱ』において、ドゥンス・スコトゥスの存在の一義性を補完するもう一つの概念に関わるとても重要な差異について、示唆に富む指摘をしている。

 「私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しないような世界は分裂症的である。」(同書「第一章 単独性と特殊性」講談社学術文庫p19)

 存在の一義性の次元では、柄谷が単独性といい、また「この」性(thisness)という言い方で言い表そうとしているような差異が完全に消去されてしまっている。

 ドゥンス・スコトゥスの存在論は、或る具体的個別的=分割不可能的(individual)な存在者を捕まえて、それを一義性(univocitas)とこれ性(haecceitas)に不可能的に切断する。それは如何にして柄谷のいうような分裂症的世界から、そうではなくて、われわれにとって自明な「この私・この他者・この物」があるような世界が誕生するかの位相転換を語ろうとしているのだといってよい。それは何故「世界」ではなくて「この世界」があるのかという非常に微妙な、しかし真の意味での存在論的差異に係わっている。

 一般にハイデガーの存在論的差異というとき、それは単純に存在者(名詞的様態)と存在すること(動詞的様態)の差異のことであると解されている。これは別に間違いではないし、事実ハイデガー自身もそう書いている。だが、実は問題はそのような表面的な文法学の水準にはない。ハイデガーが存在論的差異というとき、むしろ柄谷が明確に言い切ったような差異の方にこそこだわっているのである。むしろ論点はそこにこそあるのだ。

 レヴィナスはハイデガーの存在論的差異を語るとき、この曖昧さに業を煮やして、独自の存在の位相転換(様相変換)論を展開しようとする。そのときに彼はハイデガーの存在論的差異には、存在者と存在の区別はあっても切断がないと言い、これに対して存在論的切断を提唱する。そしてこの存在論的切断によって、レヴィナスは、彼がイポスターズと呼ぶ、存在の位相転換=様相変換論を展開するための場を、その切断した差異の奪取から作り上げる。この切り離された差異の断面において、動詞態の〈実存する〉が名詞態の〈実存者〉に実詞化するという、存在の様態変容ないし位相転換が初めて語りうるものになるのだ。この位相転換=品詞転換が生じる場のことを、レヴィナスは〈イリヤ〉(非人称の〝ある〟 il y a)と読んでいる(『時間と他者』)。

 しかし、レヴィナスはハイデガーに劣らず曖昧な語り方をしている。実際には、存在論的差異の意味を変えずにそれを存在者と存在に切断したところで何かが認識的に明瞭になる訳ではない。ハイデガーの存在論的「区別」がずれているように、レヴィナスの存在論的「切断」も切り口がずれているのだ。

 ただイポスターズが、動詞態の〈実存する〉が名詞態の〈実存者〉に品詞転換するという問題に過ぎないなら、それは全く柄谷行人の言ったような「私・他者・物」と「この私・この他者・この物」の間の差異に触れてきてはいない。
 しかし、レヴィナスがその位相転換論において真に問題にしようとしたのは、まさに柄谷のいうような差異についてなのであり、彼がハイデガーを批判するのも、実は一つの存在者において存在者と存在が区別されているだけで切断されていないということにあるのではなくて、「存在者と存在」の区別と「私とこの私」の区別をハイデガーが曖昧に混同していることに対して、それを切断しろと言っているのである。

 レヴィナスはドゥンス・スコトゥスの名を挙げていない。しかし、にも拘らず、彼のハイデガー批判はスコトゥスにおける一義性/これ性の存在論的差異によってハイデガーの存在論的差異を切断しようとしたものである。レヴィナスは非人称的=匿名的な〈実存すること〉であるイリヤと人称的=具体的で名指すことの可能な〈実存者〉を違う位相にあるものとして対比させるとき、それを〈今ここ〉という定位=局所化の有無において問題にしている。実存者は〈今ここ〉にあるところの「この私」である。これに対してイリヤは一義的で非人称的なものであるといえる。

 だが、ハイデガーは別の位相で実は一義性/これ性の差異にぶつかっている。そもそもその教授資格論文がスコトゥス論であった彼がそれを踏まえていない訳がないのである。彼は存在論的差異をいうとき、実はレヴィナスとは逆さまに、むしろ存在者の概念においてスコトゥスの一義性を見出している。逆にこれ性に関わるのが存在なのである。

 スコトゥスが存在の一義性というとき、それはあらゆる存在者を〈存在する〉という一義性において無差別平等に括ってしまうということを意味する。するとあらゆる存在は一元的に存在者一般という類概念によって通約されてしまうことになる。

 ここで言葉の問題がある。

 スコトゥスのいう一義的な「存在」というのは原語のラテン語で〈ens〉といって名詞であり、これはハイデガーの用語法でいう「存在者」にあたる。ハイデガーにとって、スコトゥスの「存在の一義性」は「存在者の一義性」を意味する。ハイデガーはむしろレヴィナスとは逆に「存在者」の概念の方が恐るべき無個性的・非人称的なイリヤに見えているのである。

 わたしはレヴィナスのいう実存者なき実存イリヤを単純に存在者なき存在と解することに猛烈に反対である。レヴィナスの実存者/実存とハイデガーの存在者/存在は位相の違った概念であり、それを安易に混同する事は愚かである以上に有害な結果をもたらす。それはレヴィナスもハイデガーも読んでも何も読まないことであるばかりか、双方の良いところを相殺しあって、単に破壊的で反人間的な哲学を創ってしまうことにしかならない。混合してはならない洗剤を混合してみたまえ。君はそのバスルームで下手をすれば死ぬ。自分の頭蓋のなかにサリンを撒くようなことをしてはならない。

 むしろイリヤは存在ではなくて、スコトゥスが一義性というような意味での〈存在者〉のことなのである。その次元においては、〈これ性〉つまり具体的個性的な実存が成立しない。柄谷のいうような「私も他者も物もあるが、この私・この他者・この物が存在しない」ような分裂症的世界(反世界)が広がっているのである。

 それはまさにウィトゲンシュタインが「示され得る」と言いながら「沈黙しなければならない」と言わなければならなかった「私=世界の限界」外にある恐るべき「語りえぬもの」の真の次元である。このウィトゲンシュタインの絶望的な恐怖と真に迫った恐怖を共有しないとしたら、『論理哲学論考』は愚かで厭味な天才気取りの頭のイカレた奴の書いた横柄で抑圧的な駄本であるに過ぎない。