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 風には何処というものがない。それは定位の不可能性としてしかありえない。風は今ここにあったかと思うともうどこにもない。それは〈now-here〉が〈no-where〉に一瞬にしてすりかわるような出来事である。

 しかし、風の跡形もなく消え失せる〈今=ここ〉のこの発散は〈今=ここ〉という場処としての場処の湧出である。
 また他方で、風の蒸発してしまう〈no-where〉(無=場処)は、〈every-where〉(遍在)という無限大への〈今=ここ〉の切り離しによる同時定位である。
 風は間を切離しつつ、間から定位を与える脱去である。
 〈空間〉と〈場処〉は風の〈位相〉の切断の内に同時定位される。

 風は光に絶対的に先立つ。
 始めに光ありき。しかし、始めの始まりには風が吹くのだ。

 天地の間が風によって破壊的に切断されなければ、そこに光が射し込み、光が始まりにつけいってくる隙間というものは与えられない。
 光神は、むしろ風神による創造の簒奪者、或いは僭称者としてしか天地に唯我独尊の定位=即位を宣言=顕現することができない。
 したがって、光は全く始まりの後釜に座っている置換えられた始源であるほかにないのだ。

 それ故に、おそらくまず風による〈容器の破砕〉がある。

 十六世紀の天才思想家ルーリアのカバラにあるこの〈容器の破砕〉という出来事は、彼の教説のシステムのなかでは、無限の創造神エン・ソーフの自己収縮=有限化であるツィムツーム(神の創造の光の一点への集中と一点からの撤退=発散)の後に位置づけられる。
 わたしはこの順序を転倒する。〈容器の破砕〉はツィムツームに先立つ。

 ルーリアのツィムツーム論は、十五世紀のニコラウス・クザーヌスの創造説にある〈縮限〉(無限の凝縮=限定 contractio)の思想を逆に突き詰め、更に煮詰めたものであるといえる。
 それ故にわたしはツィムツームを〈自己収縮〉というよりはむしろ〈縮限〉というクザーヌスの邦訳書から取った訳語において押さえたいと思う。この訳語は非常に簡にして要を得ている。この訳語を用いる第二のメリットは、それによって傍流の思想家にされているルーリアをクザーヌスとの連続性において捉え、所謂西欧哲学史の正史のなかに連れ戻すことができるからである。

 クザーヌスの縮限論は、冷静に思想史的にみれば、普遍論争の文脈において捉えられるべきものである。
 クザーヌスは、「普遍-個物」の対立の問題(普遍論争)を無限者の自己限定の問題に置換えることでこの問題に彼なりの仕方で解決を与えようとしている。
 だが、ルーリアの〈容器の破砕〉論は、このクザーヌスの縮限論では「普遍-個物」の対立の問題が実は解決できないことを批判的に表現しているのだ。
 クザーヌスの〈縮限〉は、巧みな仕方で無限な普遍者が有限な個物を調和的に創造しうることを示すことによって普遍論争を丸く収めようとする。
 しかし、無限の大海の全ての水を有限な小さな容器に収める事はできない。どれほど圧縮したとしても、そして圧縮すればするほど、無限の押し寄せる圧力は必ず容器を罅入らせ、容器はその内部から粉砕される。
 すなわち、ルーリアはクザーヌスに対し、有限な個物〈容器〉に無限な普遍者を収めることは不可能であり、故に縮限論は破綻するということを〈容器の破砕〉の逆説において示しているのである。
 
 わたしは〈容器の破砕〉を〈縮限〉に先行させるが、それはこのルーリアの立場を一層強調することなのである。
 
 わたしが関心をもち考究しようとする問題は、「普遍-個物」を巡る古くて新しいこの永遠の難問に絡むものである。そして、わたしの最終目標は現代思想というこの空疎で思考の役に立たない虚ろな容器〈観念〉を破砕して異なる思考のアイオーンを創造することにある。

 容器を破砕することは、古い時代精神に訣別し、己れの思考を異なる出発点に定位し、破壊的に思考することの意志の表明である。それは古い問題設定の廃棄であり、異なる世代の異なる宇宙を破壊的に天地創造するような思考実験の開始である。

 わたしは現代思想の諸問題などに関心は無く、それを全く共有しない。むしろ、そのような〈現代〉を破壊するためにわたしは思考する。


「Ⅲ 風の創造」に続く