不可能性の問題は、様相性の形而上学者・九鬼周造の『偶然性の問題』の
延長線上にある。
可能性・不可能性・必然性・偶然性は四つで一組の基本的な様相(modality)の概念であるからだ。
この四様相性相互の論理的関係を最初に確定し、
様相論理学の礎を築いたのはアリストテレスである。

アリストテレスは可能性(有り得る)を
基幹的な根本様相として他の様相を規定している。
不可能性は可能性の否定(有り得ない)、
必然性は他の可能性の否定(他のようでは有り得ない)、
偶然性は他の可能性(他のようでも有り得る)と表現された。

しかし、この四様相性相互の論理的規定関係は
純粋に示差的に出来上がっており、
何を根本様相にするかは、少なくとも様相論理学にとっては
全く恣意的な問題であるに過ぎない。
どうしても可能性が根本様相でなければいけないいわれはないので、
このことを逆手にとって、
九鬼は『偶然性の問題』の形而上的偶然性(離接=選言的偶然性)を
めぐる議論のなかで、
偶然性を根本様相とする様相論理学を作っている。

アリストテレスの古典的な様相論理学が可能性を根本様相にしたのは、
彼の〈実体〉をめぐる形而上学的な議論と切り離して考えることはできない。

アリストテレスは真実在を具体的な個物と考え、これを〈実体〉と呼んだ。
〈実体〉とは現実的に在るもののことである。
現実的に在るという〈実体〉の存在様相を
アリストテレスはエネルゲイアつまりエネルギーという語で表現した。

この語は通常、現実性とか現勢態という風に翻訳されているが、
私はこれを出来性と呼び変えている。
それは忠実なギリシア語訳ではないが、
概念のツボを現実性という語よりもうまく押さえていると
思われるからである。
それは「出来る」という日本語の奥に隠れているロジックを
引きずり出すことに役立つ。
「出来る」とは可能性から現実性が動的に
「出来する」(独 vorkommen)さまを表現している。

私たちの思考はその自然な習性として現実性に可能性を前置する傾向がある。
従って「出来る=出来する」は「可能である=有り得る」と
殆ど暗黙に同義に受け取られる。
私はこれを可能性の形而上学と呼んでいる。

私の考えではアリストテレスは可能性を根本様相とする
様相論理学を作りはしたが、
可能性の形而上学の思想家であったとはいえない。
可能性の形而上学は、むしろ我々現代人、
特に我々現代日本人の常識的通念を
規定してしまっている考え方の方を指して言っているのである。

アリストテレスはむしろ出来性の形而上学者だったと考えた方が良い。
彼は出来性として現実性を理解していたのであり、
従って彼の言うエネルゲイアの観念を
単純に我々の通俗的な現実性の観念を表現する、
エネルギーのない、死んだような、
蒼白い「現実」という無意味で空疎な言葉で翻訳することは、
何か非常に恐ろしい感性的な観念の掛け違いを起こして、
アリストテレスが言わんとした真の現実性であるところのエネルゲイア、
そして勿論、この我々にとってもそれを取り戻さねばならない筈の
真の現実性であるところのエネルゲイアを
見失わせることにしかならないように思われる。

真の現実とはエネルギッシュな出来性のことであり、
我々が可能性の実現として、つまり実現した可能性として思い違いしつつ
それを「現実」なのだと思っているような現実性の観念は、
むしろ実質的には非現実的なのである。

そこには出来性の次元が実はすっぽり脱去してしまっており、
現実性は実のところは観念的な可能性の影、
墓場の亡霊のようにバブリーな確率論的蓋然性(probability)に、
或いはむしろ悪夢の水泡のような
虚ろで空しい「プロバブリティー(probubblity)」に
零落してしまっている。

ところで、これは何ら不真面目な言葉遊びなのではない。
ものにはそれに相応しい名前が必要であるというのは
哲学的な概念表現の当然の公準である。

私は現実でないものを現実と呼べと強制する国語学(似非文学)を拒絶する。
国文学は間違った文学である。
私は正義の文学である天=文学としての文学を要請する。
それは現代的な科学としてのアストロロジーを
本義における天文学とは認めないという見解と別ではない。

国文学にせよ現代天文学にせよ
それは恐らく非常に愚劣な形而上学に従属し、
理性に対する世界の美しかるべき言語表現を
みにくく引き歪める現実の歪曲に貢献するものでしかない。

そしてもっともみにくいものとは、
もののあわれ(現実性)を意味不明にすることにしか役立たない
本居宣長以来の国学的な「美しい日本語」という莫迦げた虚妄である。

私はこれほどみにくい反文学的で反人間的な言葉を知らない。
私は真面目な言葉遊びによって
不真面目な言葉巫山戯けの誤魔化しを破壊することこそ、
文学者=哲学者の使命であると自覚するものである。

所詮「学問」というそれ自体無価値で無根拠な
卑屈な権威主義というニヒリズム以外に
いかなるまともな根拠らしい根拠もありえない
「正しく美しい日本語」などという単に反動的で言論統制的な、
物言わせず物思わせぬために捏造された言葉の悪法は
完膚なきまでに破壊し尽くすべき
不自由な語彙の無意味な牢獄であるに過ぎない。

悪夢の呪縛に幽囚の身となって
何ひとつ言わんとすることを言い得ない枯葉の風の歌になることが
言の葉の運命であるなどと考えてはならない。

言葉と物を切り離すなら人間はもうおしまいなのである。
砂男(夢魔)は人間ではない。
言葉のなかで冷たいものが語るようにしてはならない。

そんなものは悪寒を催す非人称の恐れイリヤの鬼子母神を見せるだけの
不幸の振り子(震える子供)の哲学であるに過ぎない。

美徳を不幸にしてはならない。
悪徳を栄えさせてはいけない。
マルキ・ド・サドの名において
私はそうした子供騙しでチル(Chilly)な
嘘八百で百鬼夜行なホラー小説的な俗悪教育哲学のサディズムに
絶対に反対する者である。

くたばれ、「魂の殺人」であるに過ぎない子供騙しの亡霊宇宙戦艦ヤマト魂!
そのようなアニマ(生命)なき動物アニメは、
ディズニーランドと全く同じの
非常に悪趣味で気持ちの悪いシミュレイクレムだらけの疑似現実であり、
全く見れたものではないのだ。

点取り虫の産婆心と老婆心に洗脳されきった
経済的動物(エコノミニックアニマル)の魂の墓場の夢の島の
名目ばかりの現実性、
virtual reality などという麗しい名称が
全く似合わないクソババアチャル・リアリティでしかないのである。

然り、言葉というものはまさにこのようにして語るべきものなのである。

筆者は東京出身ではないが江戸っ子である。
てやんでえ・べらぼうめなものは心の底から大嫌いなのだ。

江戸弁は標準的な日本語よりも美しい。
それは何よりも活きの良いその弾む調子に他ならないのであって、
もって回った学問的な上方落語よりも
遥かに直截にエネルギッシュな実体に的中するからである。
それはまことに活発な黙示録的語調に他ならないのである。
これがバベルの塔の言語、バベルの図書館の混淆言語、
バベローグ(パティ・スミス)の威力である。

バベローグ(Babylogue)は言語学的概念としての
言語=ラング(日本語もその一つ)ではない。
これはタング=舌先であり、
マザータング(母国語)ではなくて、
メギドの火の舌によって全ての単語を舐めて
その意味を味わう言葉のグルメの話法なのだ。

ここに嘘つきのパラドクスはありえないのであるから、
この全ての言語=ラングを罵倒する
エネルギッシュな言語活動=ランガージュのお話=パロールを喋り散らす
マウス・オブ・マッドネス(ジョン・カーペンター)から、
閻魔様とてその灼熱の舌先を引っこ抜くこと(去勢すること)は
不可能である。

ここには嘘を嘘たらしめる真偽の基準それ自体が
転覆されているのであるから、
決定不能性もまたありえないことになるだろう。
しかしそれと同時に、これこそがその閻魔大王の炎の舌そのものであり、
全ての嘘つきどもを火炙りにする恐るべき地獄の口に他ならないのである。

言葉とはラングではない、言葉とはロゴスであり、
理性的動物だけがそれを語り、経済的動物は
それを決して語り得ないのである。

理性的動物の語る言葉は常に政治的である。
理性的動物は常に政治的動物でありそれは自由人を意味する。

しかし経済的動物は如何に万物の霊長ホモ・サピエンス(人類)を
気取ってみたところで、
ホモ(同類)のクラスのメンバーになって名札をもらうことができるだけ、
人の人たるべきアントロポースの実体を欠落して、
人と人の間抜けな間を徘徊しては
こづき回される奴隷以外の何も意味しないであろう。

エッケ・ホモ(この同じ=人を見よ)という言葉に私は何も見いださない。
そんなところに人間なんかいないのである。
あるのはただ人間をその×印のなかに封印してしまった
薄汚い十字架の処刑台=墓標であるに過ぎない。

むしろ私は復活したイエスの吐いた
ノリ・メ・タンゲレ(我に触れるな)という言葉を好む。
まさにそこにこそ実体ある人間の何たるかが示されているのである。
実体(個物)は如何なる同類(クラス)の仲間(メンバー)でもない。
そしてクラスメイトや同僚というのは友人ではなく、
友人だけが友人なのである。

孔子のいうように、この友(朋友)というのは、
常にまさに遠方よりこそ来たる。
遠来の客人こそが人の真の意味での隣りびとであるのだ。

ホモ・サピエンス=人類の一員が
実体としての人間(アントロポース)と同一人物であるということは
大いにありそうであっても
遂に蓋然性の域を出ないプロバブリティーのバブル経済でしかない。
真のリアリティーであるエネルギッシュな現実性は
むしろそのようなものを
東京湾のヘドロの夢の水の泡にするような
恐るべき政治的出来事としてこそ出来するのであって、
実体なき信用取引の中を気分的に乱高下する
景気変動の株式市場(経済的動物の現実性)のなかには何もないのである。
重要なのは常にバールゲルトでありリアルゴールドであり現ナマなのである。
現生でキャッシュな現実性は銀行に預金されない。
常に銀行的なものからプロバブリティーは始まる。

しかし私がここで言わんとしているのは、お解りのように
経済という虚業(当然そんなものは実業ではない。生業だけが実業だ)
の問題ではない。
ここに〈銀行〉といっているのは
形而上学的で錬金術的な観念上の存在のことを言っているのである。