〈別人〉は、対人恐怖症患者の深刻な恐怖の対象として知られている強迫観念である。これは所謂〈他者〉と同じではない。〈他者〉は〈自己〉の反対概念であるが、〈別人〉は〈本人〉の反対概念であって、その意味が全く違っている。
 しかし、それにも拘わらず〈他者〉と〈別人〉は混同されやすい。〈自己-他者〉の対立軸と〈本人-別人〉の対立軸は交差するものであっても決して平行するものではない。〈自己〉と〈本人〉が同一人物ではないように、〈他者〉と〈別人〉も同一人物ではない。

 ところが、欧米語には〈別人〉と〈他者〉を明確に単語のうえで識別する表現がない。このことが飜って悪影響して要らぬ思想の混乱を招いているのは、皮肉なことに、日常会話の次元にあっては〈他者〉と〈別人〉を普通に識別している日本の方なのである。いざ抽象的で学術的な話になると、むしろ〈別人〉とか〈別人性〉と言った方がよいものまで、〈他者〉とか〈他者性〉という言葉で表現してしまう学者知識人の非常に悪い癖がある。

 私の知る限り、自己と他者という倫理学的問題系にあっては、〈他者〉ではなく、むしろ〈別人〉こそが問題だということに気づいている論者は、僅かに村瀬学くらいのものである。

 村瀬学は或る短い論文のなかで、対人恐怖症患者が訴える「別人の恐怖」に着目して、何故如何にして人間にこのような得体の知れない恐怖が出来するのかを「成り込み」という独自の概念によって解明しようとしている。

 こうした「発生点としての私」と「成り込みする私」の決定的な違いは、自意識の中に人間固有の恐怖を生み出すところにあった。それは「別人」への恐怖とも呼ぶべき恐怖現象である。その恐怖感の強さには、想像を絶するものがあるので、今まではたいてい病的心理学の問題として考察されがちであった。しかし「発生点としての私」と「成り込みする私」の決定的な差に根本の原因があるのだということになると、いくらかは日常的に理解できる道も開けてくる。
 そもそも私たちが安全だと感じるのは、見知らぬ、危険なものが、近づけない処に居る時である。だから野獣や敵の近づくのを防ぐのなら、柵を設け、頑丈な家を作ればすむ。しかし「私」が生み出した「にせの人間」が近づくのを防ぐことは、大変難しいのである。というのも「私」が居る限り、いくらでも「にせの人間」を産み続けることができるからである。「にせの人間」とは何か。それを私はここで「別人」と呼んでおくことにする。「別人」とは、「知っている人が知らない人として現れる現象」と考えておくことにする。この「知っている人」の中には当然「私」も含まれる。そして私たちはこの「別人」に直面する時、言い知れぬ恐怖を覚えることになるのである。
 この「別人」が恐怖として現れる筋道を、日常生活で使われる言い方で言えばどうなるだろうか。たぶんそれは「人見知り」「恥ずかしがり」「対人恐怖」の三つになるだろう。「人見知り」とは、「知らない人」の現れに対して見せる反応であり、「恥ずかしがる」というのは、「知られている自分」が「知られていない自分」として現れてしまうことへの戸惑いの反応であり、「対人恐怖」とは「人間」に「別人」を感じ出す所での反応、として考えることができるだろう。(中略)
 このようにして見てみれば、「対人恐怖」とは、決して単に人を恐れたり、こわがったりするというような現象ではないことがわかってくる。ここにはつまり、過剰に「人」のことを意識せざるを得なくなった人間の在り方そのものの問題が現れていたのである。つまり「人」がまるで「人以上のもの」に感じられてゆく問題である。それは「監視する他者」とでも呼ばれるべき者の現れの問題なのだ..(後略)
(村瀬学「恐怖、この他者にふれることの体験」池上哲司他編「叢書《エチカ》③自己と他者―さまざまな自己との出会い」昭和堂1994刊所収)

 私自身は〈別人〉に関して村瀬とはやや違った概念をもっている(つまり彼のいう〈別人〉と私のいう〈別人〉は困った事にまた別人なのだ)が、村瀬の展開する議論はそれ自体として非常に面白く示唆に富むものである。村瀬は〈別人〉という偽の人間の観念の起源を子供の空想の世界に求めている。子供は色々なものに成ろうとするがそのなかには現実的に決してそれに成ることの出来ないものも含まれる。その空想と現実のズレが現実の方へと破れ出し、自分がそれに成り込めなかったものがその破れ目から睨みつけてくるのが〈別人〉なのではないのかというのが村瀬の別人論の骨子である。
 わたしは〈別人〉を勿論そのような「私」の空想の産物に還元するようなことはしない。またそれを「見知らぬもの」の極限形態と考えるありがちな考え方にも反対である。「別人」はむしろ論理的なものであり、それはむしろ根源的で不可避な観念として、意識や知に対してすら超越論的に外的にあるものである。それはそもそも「私」が生み出したものではない。逆に「別人」の方が「私」に先行して存在しているのである。

 とはいえ、私自身、〈別人〉の観念を或る対人恐怖症に悩む友人の話から啓示されて忘れ難い印象を覚えた者であるので、村瀬の別人論を深い共感をもって読んだ。〈別人〉という形而上学的で難解な観念の怪物のもつ言い知れぬ深い意味について気づいている稀有な同志をやっと見つけたときの興奮は「朋有り遠方より来る」としか言いようのないものである。

 村瀬の別人論には頂けない点もある(それは彼が対人恐怖症を異常心理とみる問題設定上どうしようもないものである)が、〈別人〉という難解で恐ろしい問題があるという一石を投じているだけでもそれは貴重なことなのだ。彼は〈別人〉と〈他者〉をとにかく混同していない。それだけでも思想家としては奇蹟に近い快挙である。

 だが他方において、日本の作家たちは、この〈他者〉とは異なる〈別人〉というものについてそれを正しく名指しつつ凝視することを怠っていない。
 例えば、高橋たか子の『誘惑者』や村上龍の『イビサ』はまさにこの〈別人〉との対決という思想家たちがサボリ倒している危険な問題に真正面から挑んだ優れた形而上小説であって、その問題の核心を衝いてゆく 観念の詰めの鋭さと気迫は埴谷雄高の『死霊』に勝るとも劣らないものがある。

 高橋の『誘惑者』では、自己でもなく他者でもない謎の「別人」という不可思議な存在がまさに表題にある「誘惑者」として機能し、若い女性たちを死の火口の淵へと連れ込んでゆく戦慄すべき物語が綴られている。そしてその物語の随所随所の重要なポイントにおいて「別人」というその黙示録的な言葉は確かに間違いなくその言葉において顕現しているのである。

 村上龍の『イビサ』には「別人」についての目を引く言及箇所は一か所しかない。それは極めて些細なさりげない場面にそっと書かれているだけである。しかしそれは本質を衝いている。

 「他人が変わるのを見るのは恐いよ。大切な人が別人になっちゃうってことは、自分がよくわからなくなってしまうってことだろう?」(『イビサ』講談社文庫 一〇九頁)

 まさにそういうものが〈別人〉なのである。他者の上に起こる受け入れ難い変化の様相が〈別人〉である。それを見ることは恐いことである。それを見ると単に相手がわからなくなってしまうだけでは済まないで、自分で自分がよくわからなくなってしまうという所までゆくからである。

 もちろん、〈別人〉という人はいない。
 しかしそれは他者を他者でありえなくし、自己を自己でありえなくする恐ろしい力である。
 他人が別人になってしまうと、自分も別人になってしまう。それこそが別人の恐怖の本質である。
 この言葉は対人恐怖症患者でも何でもない人物の口から漏れているだけに意味深長である。

 村上龍は処女作『限りなく透明に近いブルー』以来、しばしば作中に離人症という特殊な病名を登場させる。離人症というのは非人称化を意味するデパーソナリゼーションという病名の和訳で、一種の人格喪失体験である。
 これは自己へと折り返された対人恐怖症であるといってよいもので、自分で自分がまるで別人のように異質に感じられてしまう病である。この病は分裂症などの前駆症状としてもよく現れる異常心理だが、単純に自分自身に対する対人恐怖と考えて差し支えない。

 私自身もこれを長患いしたことがあるが、苦しく恐ろしい病いであるにはあっても問題は意外と単純なのである。
 対人恐怖症では他者が別人になるように、離人症では自己が別人になるだけの話なのである。

 もちろんそれがひどくなると対人恐怖症よりも難解で無気味な事態にまで発展する。時間が連続性のない瞬間の砂となってサラサラと崩壊してゆくし、また、まるで非ユークリッド空間に迷い込んだような遠近感の狂いや世界の平面化、それに空間の歪みまで見ることになる。物や人がまるで化け物のようにおぞましく見えるし、自分の心に生きた感情が感じられなくなる。怒りも悲しみも喜びも自分のなかを素通りしていってしまう。頭だけは異常に冴えわたっていて非常に切れる抽象的思考が出来るがすべてが虚しくてしかたがない。物事や言葉の意味は分かるが、その分かるということがまるで嘘のように空々しいのである。自分が誰かは知っているし現実についての知識や認識力には全く欠陥がないが、その全てにどうしようもない馴染めない違和感が冷たく苦い氷のように纏わりついて離れない。

 私の場合は余りに絶望的で虚無的な気分なので自殺する気にも殆どなれなかった。むしろ自分は既に死んでいて、死んでいるのに生きているふりをし続けねばならず、しかも周囲の誰も私が本当は死んでいるのだということに気づかないのでたちが悪いのである。

 そこで生きているのは私ではない別人だった。誰もがその別人こそが私なのだと思い込んでいるので私はいないも同然だった。これは無視されるより辛いことである。他人に私が不可視なのである。私が私でないものにすげかえられ続けるのである。これは宇宙の悪意であった。

 今にして思うなら、あれこそが死である。私は殺されていたし殺され続けていたのである。私は死後の世界を生きていたし、それも地獄を生きていた。あれを死や地獄と言わないとしたら何を死や地獄というのか私には分からない。私は普通の意味でいう死よりも恐ろしい死を知っているし、地獄よりも地獄的な真の地獄を見て来た。離人症より恐ろしいものはありえない。それに比べれば死ぬことも地獄に落ちることも私は少しも恐いとは思わない。肉体の苦痛は痛いだけだ。痛みを感じられることが私には嬉しい。それは私の痛みだからである。死ぬことも傷つくことも狂うことも病むことも私は嫌だとは思っても恐くはないし、本当はそれも素晴らしいことなのだと知っている。死ぬのは私なのだ。傷つくのは私なのだ。狂うのは私なのだ。病むのは私なのだ。私がそこにいる。私の人生がそこにある。それを奪われることに比べればどんなひどい人生でも無いよりはましなのだ。

 私は知っている。現実は美しい。

 私はもう幽霊ではない。私は私を抱き締めることが出来る。でも、昔は自分自身と永遠に擦違うことしか出来なかったのだ。

 人は一般に狂気や死を恐れる。しかしそれは間違っている。

 死や狂気は離人症とは違って甘美である。離人症は狂いたくても狂えないし、死にたくても死ねないという絶望である。

 そこに何がある? 冷たい明晰さといつまでも続く苦さと辛さだけだ。苦しみすらないということがどれほどひどいことかあなたには想像できるだろうか。

 あれはニルヴァーナである。私は悟っていた。私は全く仏陀だった。慈悲深い凍りついた微笑を浮かべている他に何も出来ない人間、他人を無心に救えても己れの心を救えない人間、そんなもの最低である。

 私は離人症患者だったとき平安であった。魂の墓場というのは平安であるに決まっている。涅槃こそが地獄である。永遠こそが十字架である。そういう聖なる虚無を愛する人間は莫迦なのだ。無はどんな毒よりも苦い。

 今、私は自分の体に赤い血が流れていることが嬉しいのである。昔は、水よりもサラサラした白く透明な血が、ガラスの体のなかを流れていた。

 昔の私は仏像だったが、今の私は復活したイエスのようだ。時々あの虚無の十字架に釘付けにされていたときの古傷が聖痕のように疼いて痛み、黒い怒りに胸が詰まって動けなくなるが、そんな後遺症を抱えていたって私は離人症に勝ったのだ。私はもはや決してあの悪夢の現実の薄汚れた墓穴には入らない。

 私は死んで死を殺し、狂って狂気を狂わせた。
 今の私は永遠に生きるだろう。
 もはやいかなる力もこの私を打ち砕けない。
 何故なら私は〈この私〉を見い出したからである。
 〈この私〉とは〈虚体〉である。