思考にとって根源的経験といえるもの、
いや寧ろそのようにいうべきではなく、
運命的瞬間でありまた決定的体験でもあるような出来事、
初体験[≒処女喪失]というべきもの、
記念すべき、そしてそれに憑依され
そこに呪縛されつづけてあるような原光景をなすような出来事、
それはなにかしら全く他なるもの、純粋に他なるものの体験である。

思考がそれに殆ど犯され、
強姦されるというような仕方で初体験し、
いやむしろそのような仕方でしか
それを初体験しえないというこの純粋に全く他なるものは、
思考の身に起こる或る比類のない異変を、
その身に起こる災難を、
その身に降りかかる災厄を意味するものであるだろう。

初体験とここにいう出来事は
まさしく厳密にいって思考そのものの誕生を意味する
という他にないのだけれども、
思考そのものをイニシャライズするこの初期化、
または思考そのものをイニシエートするこの秘儀参入の出来事は、
思考の基体にとってそれを主体化する出来事であるにせよ、
破壊的で暴力的で強制的な出来事である。

この初期化の過程は、
思考基体を思考媒体に強制的に変換するものであって、
思考基体がそれ以前にもっていたであろう内部組織を
ズタズタに破壊してしまう
思考自体の災変=再編成の強制執行を意味するものだろう。

思考媒体とせられた思考主体は
以前にあったそれ自身であるところの基体から引き剥がされる。
いずれ再びまた同一の基体に転記され
書き込まれ内在させられるとしても、
そして基体に再内在化されることによって
主体化し実体化するのだとしても、
それはかつて己れがそれであったところのものに、
それを大地として小さな〈種〉のように還元されて
埋め込まれるということに過ぎないだろう。
大地は分断され命脈を断たれ死物と化していることだろう。

思考は確かにかつての故郷に舞い戻ることになるのだが、
故郷は彼をよそものとしてよそよそしく受けとめるに過ぎない。
思考にとってかつての故郷である基体との一体感は
二度とは戻らないのである。
それは二度と再び自分自身と
内密(アンチーム)な関係に戻れないということであり、
私的言語または幼児の喃語による
自分自身との意志疏通がうまくいかないということを意味する。

思考は自分自身を再び受け容れてくれた基体を異質なもの、
そのなかにあって居心地の悪い不気味な場処として受けとめる。
この感受性は思考に属する。
それは思考の新たな単独性または固有性を作り出す。

かつて基体との端的な一体性のうちに成就されていたであろう
一次的な単独性=普遍性、
本来的な固有性は剥奪されたまま二度と戻らない。

感受性はそれに代わるものである。
それは同質性や親密性や親和性ではない。
感受性は異質性や異様性、異和性によって根源的に条件付けられている。
感受性の根底にあるのは還元不能の違和感であり齟齬である。

自己異和性は、自己同一性と切り離しがたく結び付いて必然的に生じる。
自己異和性という感受性は、
自己同一性の論理によって無視せられがちだが、
実は理性(通常〈理性〉と呼ばれるところの論理性)よりも
高次な知性の思考に残存していることの証しであり、
自己異和性という外傷を通さなければ
自己同一性は単なる抽象的な、そして愚かな類的同一性であり
種的個別性をしか意味し得ないだろう。

自己異和性の反対物である自己同和性こそ
自己同一性の論理性が教訓的にそうあるべきはずであるとして、
感受性に課せられた義務として、また当為として期待する
洗脳的=弁証法的な効果である。

しかし感受性はこれに永遠に違背し背馳すること、
反抗的=逆説論的な主張を表明し続ける。

感受性は、従って超越論的なものを
自己同一性には還元不可能な外部性として、
反弁証法的逆説として、直接無媒介なものの執拗な存続として、
実存(ex-sistereつまり基体から剥奪=搾取されること)という自己同一化
つまり実体化に対する抵抗・レジスタンスとして、
異議申立ての告発として基礎づけるところのものであるだろう。

超越論的なものは直観ではなく、
寧ろ直観とは根源的に違背するところのこの感受性である。
感受性は直観には還元不可能である。