〈勿体〉とは「勿れ体」、事勿れ主義のことである。
 それは形而上学的な観念であり、
〈実体〉に根源的に矛盾する〈みにくいもの〉である。

 ところで、埴谷雄高の形而上小説『死霊』には、
 やはり「〈実体〉に根源的に矛盾する」といわれる
 形而上学的観念〈虚体〉を探究する架空の哲学者・三輪与志が登場する。

 わたしがここでみにくい〈勿体〉と呼んでいるのは、
 この〈虚体〉のことではない。

 むしろ〈虚体〉とは〈綺麗なもの〉のことである。
 それは〈美しい現実〉において出来している〈実体〉と
 全く同じものであるとはいえないかもしれないが、
 それに矛盾するものでも敵対するものでもない。
 何故なら〈実体〉とは本当に〈美しいもの〉だからである。
 そして〈綺麗なもの〉である〈虚体〉なくして、
 〈美しいもの〉である〈実体〉はありえないだろう。
 〈虚体〉とは〈美〉、
  ――より正確にいうなら、
 〈美しいもの〉をしてそれを美しいものたらしめる
 〈綺麗なもの〉=〈きらめき〉、或いは
  純粋現実性の様相、その純粋な出来――である。

 これに対し〈勿体〉は
 何よりもこの〈美〉を毀損するからこそ〈みにくいもの〉なのである。

 この〈みにくいもの〉は例えば、〈存在〉と呼ばれる。
 そして、〈存在〉がそのまことに存在な存在をぞんざいに広げ始めるとき、
 〈実体〉は圧殺され、非現実が始まるのだ。