埴谷雄高の〈自同律の不快〉のテーゼ「《私が私である》こと(自同律/A=A)は不快である」を、『探究II』の柄谷行人は「一般性(類)-特殊性(種)」の系と「普遍性(超越)-単独性(個体)」の系の食い違いの問題に置き換えながら、これを〈単独性の脱去〉のテーゼ「《私が私である》こと(包含/A∋a)には〈この私〉が抜けている」にパラフレーズしている。
 これは「〈私〉と〈この私〉が別人である」という〈別人の恐怖〉のテーゼに換言しても内容は同じである。
 この場合、〈私〉は「一般性のなかの特殊性」「類のなかの種」「クラスのなかのメンバー」「母の胎内の子」ということのできる特殊者であって、単独者としての個体性を意味する〈この私〉とは、同じ「私」であってもその「私」の意味が違っている。
 これが〈別人〉であるということである。
 しかし、他方で特殊者〈私〉と単独者〈この私〉は物としては全くの同一人物である。
 すると《私は私である》という自同律(自己同一性)にしたがって、特殊者と単独者の間の差異(別人)は消され、〈私〉と〈この私〉は〈同じ私〉にされてしまう。
 すると〈別人の恐怖〉は〈自同律〉の背後に抑圧された黙した恐怖(語り得ぬもの)にならざるをえない。