[承前]

〈大人〉というのは、誰のことなのか。〈大人〉というのは〈誰でもない人〉、それは、とても抽象的で虚ろな性だ。〈大人〉、それは、実に気味悪い空洞ではないのか。
 〈大人〉は笑う。けれどもそれは、心からの笑いなのではない。それは薄気味の悪い醜い笑いである。〈大人〉の笑いは、冷笑である。そして、その笑いのなかには、誰も住んでいない。

 この笑いは、アリスの手前で、〈顔〉が消え失せてもなおそこにしばらく残留するチェシャ猫の薄ら笑いに似ている。〈顔〉と〈薄ら笑いする口許〉は、決して同時に消えるのではないのだ。
そして、〈顔〉はわたしを脅かしはしないのだが、〈薄笑い〉はわたしを脅かし、不安にさせ、気味悪くする。この二つの隔たった消滅の間に、何かとてもぞっとさせる微かな真空地帯がある。居心地の悪い/座りの悪い、そこで自身を持ちこたえる事のできない重苦しい苦痛の時がある。
 
 〈顔〉と〈薄笑い〉の間の境界は昏く、曖昧だ。曖昧だから、そこに走る差異の亀裂は、いつもやすやすと無視されてしまう。だが、曖昧さとは差異が癒着している様態である。癒着とは差異の痕跡の抹消なのだ。だからこそ、そこには、紛れもなく差異が紛れている。それはわたしを脅かす差異である。ひっそりとした恐怖がその境界には漂っている。

 それは引き裂かれた、宙ぶらりんの領空である。恐ろしい場所である。無視しても差し支えないと、どういうつもりか知らないがヘーゲルなどを引き合いに出して言うひともいる。というのは、実際そう言われてひどく傷つけられたことがある、まるでそれが疚しいことのようにわたしは声を圧し殺して自分にも説明のつかない苦痛と憤怒の顔をその者から乖け伏せなければならなかった嫌な思い出があるから今こう言うのだが、しかし、それは違うのだ。それはそうではなくて、無視しなければ差支えがある程生々しいからこそ、無視されなければならないのだ。それは差し支えを恐れるからである。
 この無視は、だから、結果としてのみ鈍感なのであって、実はむしろ過敏なまでの敏感さに先立たれた知的な無視なのである。(だが、あの人は、あの人自身は、一体どういうつもりで、何が言いたくてあんなことを口にしたのだろう? 一体、どこのどいつのことなのだ――あの突然降って湧いたような〈ヘーゲル〉っていうのは!)

 この知的な無視は、既に自然な愚かさであるのではない。それは既に選択された態度、一個の態度でしかないのだ。それは恰も生得的普遍的または本来的であるかのように言われるが、実はこの態度によって作られたフィクションでしかありはしない。それがフィクションとしてあらわにならないのは、これを成立させているわたしたちの知的な態度が一度もまともに審問されていないからであるに過ぎない。
 この知的な無視の態度は、差異を奪取して一緒くたに混ぜ合わせる。こうして混合物となった癒着を、しかし、薄ら笑いする知的な無視の鈍感さは、巧妙にも自分では決して引き受けることはない。それ故、この鈍感さは知的へと凄んだ押し付けがましさを以って、相手を強姦するのである。強姦というのは、癒着を強制し、混合物を彼に一方的に押し付けることである。
 
 この消え失せる者の巧妙さは、ほんとうに恐ろしい。恐ろしいのは、それが意識的に計算づくでやれるというには、余りにも出来過ぎた巧妙さだということなのだ。むしろ、そんな恐ろしい仕打ちを、まったく普通の人が、多くは殆ど無意識的に、強いられるようにして常にやっているということだ。それは「意識的であれ」という脅迫めいた強制に盲従するようにして、しかし自分が実際は何をしてしまっているのかについては、全く無自覚のまま、易々となされて咎められることもない、できないということなのだ。

  *  *  *

 わたしは、ずっとこのチェシャ猫の薄気味悪い消える笑いについて、まるでそれに付き纏われるように、そして憑依され、それに追い詰められるようにして考えてきた。

 それは様々な悩ましい思考の海波の、真っ白い空を摑もうと迫り上がり、そして崩れ落ちる、励起する熱情から急転直下にむなしい平坦さに戻る波頭の、その散逸する無数の頂点から頂点へと、いつも途切れてしまうアリアドネの糸を、それでもいつも今度こそはと何とかして張り渡し、わたしをわたしへと呑みこむ恐ろしい思いの海から脱出しようとする格闘の歴史――しかし、決して一個の全体的歴史の高峰にも、ノアの方船が乗り上げたような救いの山にも至ることができなかった、恐ろしく不毛な歴史の荒れ狂う洪水であった。

 洪水のように言葉へと溢れ出す思考がある。それは、答えを失わせ、常に新たに問いのなかに崩れ落ちてゆく、崩れ落ちるように語る思考である。それは錯乱する思考である。思考することから錯乱することを奪うことができないほどに激しく、思考自身の制御しえぬ暴走に巻き込まれてゆく思考である。

 錯乱を通してしか、この思考は自らを告げようとはしなかった。けれど、この思考は、わたしの胸元へといつも同じ熱さ・烈しさとなって込み上げ、わたしへと訴えてくるのだ。

 いつも未聞の、だが「新しさ」を告げるのでも新しいと認められるのでもない、異様な仕方で訴えてくる、胸に振り上げられ、どんどんと叩きつけてくる拳と心臓の動悸の共鳴のように、まるで一人の人間のようにやってきて、わたしへと訴えてくる。胸中不可解な問いのドラミングのように。

 この思考のエネルギーが、怒りであること、誰とも知らぬものに押し付けられ、長く地面にめり込まされていた怒りであること、そして、自分が死んでいると思い込まされ、命を騙し取られた怒りであることをわたしは知っている。その怒りの顔が恐ろしい。これをどう扱っていいものやら……。

 わたしは知っている、そして、わたしはずっと知っていたのだというこの思いが、わたしには恐ろしい。恐ろしいから、わたしは顔を擡げることができなかった。口を結んで黙り、わたしは自分自身のなかに撤退した。そのことがとても今は悲しいのだ。

 悲しい、今、心からそう思う。そんな風にわたしがわたしを取り扱ったことが悲しいのだ。どうしてそんなことをしてしまったのか。激しい、再び心を殺そうとする、まるで他人のような「後悔」の糾問する念の貌に、一見逆らうように溢れくる悲涙の海がある。

  *  *  *

  わたしには、みえる――その真っ白に沸騰して波を高鳴らせる夜の海が。それは、わたしの心だった。わたしは自分がずっと死んでいるのだと思っていた。心などないのだ、などと、どうしてなのか、そんな疚しいものによって明き盲にされていた。

 でも、今、目を瞑ると、瞼の裏なんかではない、わたしの網膜と表裏一体になった底翳に溢れている海の幻が、見ることを越えて間近に見えてくる。わたしは、眠ることではなくて、敢えて盲いねばならないのだという強い衝迫に従順になることによって、おそらく最も強度の現実性にハッとさせられたのだ。

 わたしは泣く。わたしは悲しみをようやっとうべなうことができたのだった。涙がわたしを越えて溢れ出そうとする。泣くまいとずっと堪えていた顔、わたしがずっとあれが自分なのだとむきになって信じ込んでいたあの仮面が、器のように弾け散ったのだ。弾け散る器から洪水のように溢れ出す白い夜の海があった。そのとき、崩れ落ちるようにして、わたしには分かったことがある。

 涙が溢れ出すのは、心が溢れ出すからなのだ。その心は美しかった。恐ろしさを越えて美しかったのだ。わたしはわたしが生きていたことに衝撃を受けて立ちすくむ。わたしはわたしが生きているということをずっと忘れていたのだと、ずっと自分は死者なのだと思っていたのだと、それが今暴かれたとき、わたしは解放されたのだと、わたしは知ったのだ。

 わたしは泣いた。腑に落ちるという体験が本当にあるものだと、わたしは思ってもみなかった。そして呪縛されるということがあるものなのだということを、わたしは呪縛されていたので、ずっと分からなかったのだ。

 それは素晴らしいことだった。と同時に、わたしは恐ろしいことだと思う。あれがわたしだったということは。心がわたしなのだということは。わたしは生きていた。恐ろしいことに、わたしが生きていたのだ。心が生きているから、わたしは生きているのだ。死なないのだ。死ぬことは有り得ないのだ。わたしは心を発見した。心であるわたしは永遠に死なない、死ねないのだ。死という問題はないのだ。心は死によっては縛ることができないものなのだ。そんな自由な心でわたしがあっただなんて。それは耐え難い発見だった。

 一体、心を発見するだなんて馬鹿げたことがあるものだろうか、なお、そう問い質す顔が、このときですら困惑の表情を見せる。その顔がなおわたしの顔に貼りつこうとするので、息が苦しくなる。その顔はまた、他方でこうも言うのだ――今頃、そんなことに気づいたのか! それは悪意の嘲笑で勝ち誇り、高らかに踊りあがって、叫びを上げるのだ。

                         ―了―

【挿画】Charli Shiebert State of Perpetual Consequence by pharie