〈意識〉の核心には〈無〉がある。そしてこの〈無〉は〈意識〉にとってその永遠の死角であり、また心臓部にもあたっている。だが、その中心が〈無〉であるもの(すなわち〈死〉であるもの)によって、いわゆる「現実」という脱出不可能な〈夢の呪縛〉(柄谷行人)は、決してそれを暴けぬ夢、決して見破れぬ夢、そして決して見果てぬ夢となって僕たちを包み、幽閉しているのだ。

 〈意識〉という黒き鉄の牢獄、しかしそれは実のところ、まったく非現実的な薄い皮膜でできているのだ。

 さて、この皮膜の体験については、僕も覚えがあるが、ここに哲学の素養のある若い女性の記した離人体験についての感銘ぶかい記録(時には哲学の話を)があるので紹介させてもらう。

  *  *  *

「離人症について1」(「時には哲学の話を」)より
小学校6年のとき、祖父がポックリ逝った。
人の死体を初めて見た、肉親を初めて失った私は詩を書いた。

『死ぬということ』
この詩は当時の担任の先生をいたく感動させたらしく、
地域の小学生の作品を集めた文集に載せられた。
今でもそのコピーは大切にとってある。

この詩の中には最初、こんなフレーズがあった。
「目の前に 膜の張ったような」

そのころ、父は私の作文や読書感想文にいちいちアカを入れていた。
父の私に要求する言葉は、キザで説明的に過ぎて
漢字がやたら多くて、嫌でしかたなかった。
大人だとか子どもだとかいう違い以前に、世界の見方が違うと感じていた。

そのときも父は、いつもと同じように私の原稿用紙にアカを入れた。
私は返されてきた原稿を見てひどく憤慨した。
「うすい膜」が、「うすい幕」に書き直されていたのだ。

漢字を知らないとか間違えたとかではなかった。
私にはまず「まくがはった」という言葉が下りてきて
その「まく」の正体を知りたくて自分で辞書で調べ、両方の意味を知り
そして、「幕」ではなくて「膜」を選んだのだ。

けれど父は、私がいくら説明してもいっこうにピンとこないようだった。
このフレーズ自体がどこにも見当たらないところをみると
私は結局、父を許さぬまま諦めて、だけどどうしても気に食わないから
そこをまるごと削ってしまったんだと思う。

譲れなかった。祖父が死んだとき私の目の前に張ったのは
あんなカーテンみたいな垂れ幕ではなくて
生ぬるくて湿っていて、向こう側は見えるのに決して破れないような
かすかなうすい生体膜
だったのだ。
絶対に、誰がなんと言おうと。

生体膜は、私のまだ短い人生の中で
存在感を強めたり弱めたりしながら、常に目の前にあった。
気がつけば、祖父が死ぬよりもずっと前から。
私は、その音もたてない得体のしれぬ生体膜に常におびえきっていた。
けれどそれが一体なんなのか、幼い脳みそでは到底計りしれなかったし
誰に伝えようとしてみても、たとえば私の父がそうしたように
ただのセンチメンタルや勘違いの類で処理されるばかりだった。
そのせいで私は自分のことを、今までもこれからもひとりぼっちだし
周りの人間たちよりもひどく不幸だと考えていた。

生体膜の存在感は、周りに音や人間が溢れているときほど強くなる。
私が都心の雑踏を嫌いになったのはそのせいだ。
今でもどうしても好きになれない。
二人以上の人間が集まるところは、私には針のムシロのようなものだった。


  *  *  *

 特にこの記録の中の《生ぬるくて湿っていて、向こう側は見えるのに決して破れないようなかすかなうすい生体膜》という彼女の表現は非常に正確な描写で、感心させられる。

 非現実のこの皮膜は、離人体験の一番はじめに特徴的に出てくるものだ。

 離人症とは何だったのだろう。それは〈意識〉というこの決して見破れぬはずの夢、その夢に現実を見るという最悪の悪夢が、それにも拘わらず全く虚しい非現実の虚構に過ぎないということを洞察してしまった人間の見るもうひとつの、別の悪夢に過ぎなかったのではないだろうか。つまりそれは夢に現実を見るのではなく、夢に真実を見てしまうという悪夢なのだ。

 つまり、ここに二つの悪夢がある。

 一つは、夢に〈現実〉を見るという悪夢であり、もう一つは夢に〈真実〉を見るという悪夢だ。後者は、前者を対象化することによって生成する。

 離人症という病気には、つねにこの二つの悪夢の両面が表裏一体になって観測される。

 離人症というのは実際には病気ではなく認識のことである。本当は病としては誰もがそれにかかってしまっているのだともいえなくはないだろう。というのはそれは、柄谷行人の卓抜な表現を借りていうなら「意識という病」なのだから(やや、違った。「意味という病」だっけ。ま、いいか。〈意識〉も〈意味〉もその〈意〉は同じだわね)。それは誰もがかかっている病気だ。つまり〈意識〉というのは病気であり、だが、同時に人間の実存構造そのものでもあるのである。しかし多くの人にはこの病気が病気なのだという病識(自覚)が欠けている。離人症という病者の光学は、この〈意識〉というパラドクサルな形而上学的で透明な実存の迷宮を目に見えるようにしてくれるのである。

※この文章は2004/11/26にはてなダイアリーに投稿した日記の文章を一部修正したものです。

 転載元:http://d.hatena.ne.jp/novalis666/20041126