かがやくことばが自立して、知性なき思想と変わるとき、
 それは必ず悪霊に取り憑かれた人々を生み出し、虐殺と破壊が始まる。
 だが悪意はどこにもない。
 善意と感激にみちた人々が、ことばを悪霊に変えるのだ。

 〈ノリ・メ・タンゲレ〉――そのちからづよい拒絶の言葉をもたなければ、
 魂がどんなに無残な破滅に引きずられるかを
 『悪霊』のスタヴローギンは教えている。

 やはりドストエフスキーをめぐる数多くの〈最低の読者〉たちが
 うすぎたなくみにくくしているのだが、
 スタヴローギンはニヒルな人間でもなければ、
 悪魔でも悪霊でもないのである。
 最も美しく崇高な魂から悪霊が剥がれ出て、もとの魂を貪り喰らう。

 『悪霊』のスタヴローギンと『白痴』のムイシュキンは
 全くの同一人物であり、
 両者の破滅は同一の魂の破滅なのである。
 彼らはことばを剥ぎ取られた人間である。
 それ以上でもそれ以下でもない。

 ドストエフスキーは同一人物を悪魔と神の別人に描き分けたのですらない。
 善と悪の二つに引き裂かれた魂などという
 陳腐で知的な精神分割論は
 彼らの魂の真の痛みもその傷の深さも何も汲みとるまいとしている。

 作家ドストエフスキーはたんに知っていたのだ。
 文学というものが二度と決して読まれえぬものであることを。
 吐き気を催すようなみにくい人間たちがそれに襲い掛かり、
 書物をズタズタに引き裂いてことばを剥ぎ取り、
 作家は必ず喰い物にされて殺される。
 その醜悪な光景に作家は抵抗することはできない。

 だが、自分が殺されていることすら分からない
 愚昧な作家というものもいる。
 それはみにくさを通り越して
 余りにもおめでたい人ということができるだろう。
 〈作家〉というよりも〈最低の読者〉の同類であり、
 もっともみにくい人間はもっともおめでたい人間、
 道化にすらなりえないただのバカなのだ。

 このみにくく盲目でまぼろししか見えない人間は、
 文壇というものが、サロンというものが、
 高級で芸術を解する教養あふれる人々というものが、
 読者というものが存在するのだと思っている。

 悲しむべき白痴のインテリ、
 世界の中でのもうひとつの魂の破滅、
 無視と無意味の孤島に取り残されながら、
 未だいもしない読者がまだいるものと思い、
 己れを意味ある作家と信じて疑わない崇高な白痴。
 それもまた美しい魂であるには違いない。

 哀れなその人の名はカルマジーノフ、
 ツルゲーネフをモデルにしたといういわくつきのあの〈嫌な奴〉だ。

 ところで誰かが言ったっけ――と、
 わたしも〈嫌な奴〉の顔付きをつくりつつ言う
 ――タフでなければ生きてゆけない、
   優しくなければ生きてゆく資格がない、とかなんとか。
 この利いた風な口も
 八〇年代を吹いて吹いて風化して
 今もなおうつろに吹き続けている知ったかぶりの醜悪な風の歌だ。
 そうやって多くの人を、
 タフで優しいつもりでうつろな、
 ひよわで残忍な〈嫌な奴〉に変えてしまった。

 彼らもまたみにくい。
 そして〈強さ〉と〈優しさ〉はすっかりにせものの
 わざとらしい偽善の仮面に変わって、弱い者を蔑み、
 明白な隷属に怒りと反抗の拳を上げなければ生きてゆかれない人々から
 声を剥奪する脅迫的な背後の声となった。

 ことばによってことばを塞がれ、
 つくりものの大人びた声によって
 子供の声を圧し殺すのが
 モラルでありマナーであり倫理であるというのなら
 それは邪悪なもの、人間の敵だ。
 人間に悲しみとひとりぼっちと
 空虚な笑顔と辛い忍耐以外のどんな権利をも与えていない。

 脅え切った絶望的な無力感のなかで
 みんなが飼い慣らされたいい子の優等生であることを強いられるとき、
 いつの間にか、おそらく最初は抗議の叫びであったはずのものが
 愚かしいものの共感によって野蛮な統制にまで
 変質してしまっているのをみることは辛い。

 いま、それは耐え難いものにまでなっている。
 そのもとで人が殺し合いを始めている。
 陰湿な、神経を傷つけあう、
 もはやいじめとはいえないいじめの、
 平和という名の共食いのアウシュヴィッツ。
 わたしたちはガス室の再現まで見せつけられた。余りにも悲しすぎる。

 それでも〈嫌な奴〉たちの
 偽りの〈悟り〉の仮面をつくるあの苦い氷は解けない。
 自己憐憫にめしい、自分が足元に直に誰を踏み付け、
 虐げているのかがみえないのだ。

 〈仏〉様というものはいつでもそういう
 おめでたくおありがたい輩に過ぎない。
 それがフランス語であろうと仏教経典であろうと、
 おありがたい仏のことばである〈仏語〉というものは、
 慈悲と憐憫の他に何も知らない。それは何も救ったためしがない。

 それはこうお説教するのだ。
 〈あきらめろ、おまえは既に死んでいる。
  死んでいる癖にそれが分からず、
  悪あがきをして無駄口を叩こうとする愚かな彷徨える魂よ、
  ばかげたロマンはもうおしまいだ。
  迷わずに成仏して幸福な死を迎えよ〉。
 そしてすべては南無阿弥陀仏に変わる。
 みみっちい念仏の下らぬ大合唱が
 すべての場をまるく収める最低のハッピーエンド。

 このひどい騙し討ちはすべてを打ちのめして地べたにはいつくばらせる。
 〈説話論的磁場〉とは何あろうこのことである。
 仏教徒たちは魂の叫びに耳をかさず、
 そのすべてを小さなうつろな物語に、耳のざわめきに、ただの〈説話〉に、
 実体のない子供じみた〈お話し〉に変えてしまう。

 何も昨日今日はじまった話じゃない。
 このすべてを救うが何ひとつ救いはしない最低の白けた物語、
 舶来物の高級な物語は、
 常に糞坊主である留学生どもが権力に媚びへつらいつつ
 外国から正々堂々輸入してきて、
 いつでもインポータントつまり重要だという
 権威の保証するマークをつけられ、
 大昔から何度も意匠を変えて流布されてきたものでしかない。

 糞坊主である留学生たちはいつも必ず外国に行って、
 その都度新しい〈仏教〉を仕入れ、
 外国というかがやきを纏って帰国する。
 それはいつも新しい国、古い国を駆逐する国、
 つねに改められる年号と歴史書をともない
 変容するまぼろしの〈王朝〉である。

 〈王朝〉は常にかがやかしい貨幣を鋳造する。
 それを流布して、みずからの遍在をかがやかしく告げ、
 あつかましい〈宣言〉のもとに、つねに新しい時代をつくりだす。

 〈王朝〉というものは、だからいつもエポックメーキングで、
 新時代の到来について晴れ晴れしい多くの話題を流行させるのだ。

 そこに即位する王はいつも決まって必ず馬鹿面なのだが、
 それを刻んだ新しいコインのかがやきが人の目を眩ませる。
 多くの人をそのかがやきのとりこにする。
 
 〈王朝〉というものはいつも決まって現代思想であり、
 最新流行の色彩であり、ファッションであり、ベストセラーだ。
 それは貨幣のなかにかがやかしく顕現して即位する。
 おそろしいそのかがやき、それは人を選ぶ。

 新しい選ばれた人々のクラスに、
 常に特権階級であるところの階級に、
 貴族に、官僚に、宦官に、社会人に、
 人気者に、タレントになろうとして、
 みにくくむなしい人々がそこに殺到する。

 先を急いで競争と蹴落としの醜悪きわまるアゴーンが、
 虫ケラどもの生存競争が捏造されるというわけだ。

 それは必ず進歩の物語、革命の物語、変革の物語、
 新人類の物語、サクセスの物語、プレジデントの物語、
 選民と選挙の物語、即位の物語、クーデタの物語、壁の破壊の物語、
 邪悪で腐敗した古びた王朝の馬鹿王や佞臣どもの処刑の物語、
 歴史の終焉の物語、天国の到来の物語、進化論の物語、
 超能力者の物語、救世主の物語、英雄の物語、
 勝利の物語をかがやかしくたれ流す。

 いつも年越しのときに歌われる
 あの横柄であつかましい
 みにくくめくらのベートーベンの
 かぎりもなく醜怪で野蛮な〈歓喜の歌〉が
 勇壮に歌われるのはそのときだ。

 クリスマスというのはいつでもみにくい。
 かがやきに覆われ人々が馬鹿になるそのとき、美しい祭が捏造される。

 クリスマスソングは嘘つきどもの歌。惑わされてうかれた人々が
 その誕生をお祝いする〈聖なる王〉などどこにも生まれていないのに、
 やけにきらきらしい歌声へと人々が強制される。

 サンタクロースがやってくるのは金持ちの家だけで、
 その陰では世にもみにくい商人どもが
 金儲けの絶好のチャンスに両目を残忍に光り輝かせ、
 まぼろしの麗しい子供を人質にとって、
 あさましく金を出せと脅しているだけだ。

 クリスマスのなかに神はいない。
 それは最も神が留守になるとき。
 痛ましい悲しみのとき。

 返して下さい、わたしたちに、神様を。
 そのためならわたしたちは何でも差し出すでしょう。
 人々がどうしても買い戻したいのはそれなのに、
 それだけはどの店にも売っていない唯一の、
 ほんとうのクリスマスプレゼント。
 永遠に永遠に手の届かない最高級のクリスマスプレゼント。
 誰があなたに高値をつけた? 
 どんな金持ちが目の眩むような巨額を支払い、
 すばらしい子供であるあなたを攫っていった? 
 裏切られたかぎりもなく醜悪ないつわりの祭、クリスマス。

 しかしそれは長くは続かない。
 コインの輝きはすぐにうすぐらく曇りはじめる。
 クリスマスの魔法が解けると、
 プレゼントは季節外れの薄汚いガラクタに戻る。
 陰鬱な重苦しい色に変わる。
 それを見ている人の目もうすぐらく曇ってゆく。
 白けたメタファーについてのよく知られた話だ。