仏教認識論の唯識派によれば、外界の事物は存在せず、
それらは構想(構想力の問題)されたもの、虚構に過ぎない。
世界は表象つまり心の現れ(心的現象/心象)に過ぎず、
存在するのは心のみということになる。
これを唯識無境という。

更に仏教は認識主体となるような〈わたし〉
つまり(個我)の存在(基体/主語の実在性)も認めないので、
この心を刹那滅するものと把握する。

心の刹那滅についての議論は
瞬間の漸消=自発を説いた
レヴィナスの『実存から実存者へ』に興味深い酷似をみせている。

仏教における刹那の連続性は
刹那の自同的/実在的/実体的/同一的存続を認めていない。
後の刹那(心)と前の刹那(心)は
同一の不滅の実体としての心なのではない。
ただ前刹那の〈しがらみ〉である〈業〉を背負うという意味で
連続性があるというのみなのである。

そこで、ある時間の間花瓶が見えているという事実は、
実は「心の中に花瓶像が客観的契機として現われる」
その心の刹那的連続なのである。
そしてそのような心のみが「有る」のであって、
外界に花瓶など存在しないのである。
主観と客観の対立は心と外界ではなく、
心に内在する主観的契機と客観的契機との対立である。
しかし、その「客観的契機として現われる内在的対象像」そのものは
はたして真の実在であるのかと更に問い質すならば、
実はそうではないのである。
それは根本的には無明に起因する。
(戸崎宏正「認識」『岩波講座東洋思想第10巻 インド仏教3』所収 P161)

カルマ(業)に於ける連続性から
存在(同一的実体)は寧ろ錯覚(虚妄abhāta)として生ずる。

                          (1996/2/22記)