埴谷によって「自同律の不快」を体現させられた『死霊』の主人公・三輪与志は、岸博士という精神科医に「私が貴方を押したらそちらに動くというような現実に生きていたいか」と問われて、生きていたくない、と至極当然なことを答えている。
 岸博士はそれを聞いて三輪与志が現実を認めていないのだと勝手に決めてしまい、それは危険だ、それではあなたは自殺するしかなくなってしまう等という実に観念論者(理性的幽霊)らしい愚かなことを言っている。
 「現実」とは「この私」(個体)が生きているというだけのことだと静かに真の自己肯定の境位に身を持している誠にもっともな現実主義者の三輪与志はこれに対して、自殺は単に自殺であるに過ぎない、人間が人間らしく生きられるためには、そんな莫迦げた自同律に規定された幽霊屋敷のような現実では駄目だから、僕はそんな間抜けな観念論に逆らって本当の「実体」であるところの「虚体」を人間の自己証明として創造してみせると言ってのける。

 三輪与志の口を通して、埴谷雄高がここで「虚体」と呼んでいるものは、後年柄谷行人が『探究II』において特殊性とは異なる単独性としての「個体」(この私)と呼んでいるものと別に少しも違わないものである。

 埴谷雄高=三輪与志が言っている「自同律の不快」というのは、アリストテレスの言っている「実体」の観念の心臓部にあたるその本質部分が自同律によって空虚に規定されているだけの「存在」(自己)の観念に抜き取られているとすれば、そもそも「実体」という語はその意味を少しもなしていないではないかという人間として全く当然な痛切な実感に根差しているものである。

 「私は私である」という自同律は、誰にでも形式的に妥当する「自己」という観念を導く。この「自己」は一般性としてある。すると「この私」は何か。それはその一般的な「自己」の自己性を分有された特殊性だ、という答しか自同律は真理として許さない。すると、「実体」(個別者または単独者としての「この私」)の実体性は空洞化してしまう。

 しかしそれにも拘わらず「この私」はここに実体として在る。それは現実に「この私」は生きているということと別ではない。だとすれば、自同律の一般性から特殊性として出てくる自己性という「その私」と、ここに現実に実体として実存し実在している「この私」は、同じ「私」という語で混同されていたとしても違う私である。すなわち「この私」と「その私」は「別人」なのである。
 それは換言するなら「存在」(自己)と「実体」(自我)は「別人」なのだ、ということを証明しなければならないという問題にいきつくのだ。
 そこにこそ埴谷雄高が〈虚体〉という語において言わんとしている問題の不可能性の核心がある。

したがって、次のように言うことが出来る。

私は私ではない。むしろ、この私とは〈現実〉なのである。

【関連文献】


著者: 埴谷 雄高
タイトル: 死霊〈1〉



著者: 柄谷 行人
タイトル: 探究〈2〉