――灰色の水のおもてに身をかがめれば、そこにまどろむ自らの異様に出遭うであろう。

   *  *  *

〈別人〉と〈他者〉の違いをのみこむには、眠りびとを離れて、最も簡便なイメージ発生装置である〈鏡〉の前に自分自身を立たせてみるにしくはない。

〈鏡〉には〈別人〉が映るが、決して〈他者〉が映るのではない。

 その〈別人〉は〈他者〉とは全くの別人である。
 それは〈他ならぬこのこれ〉という仕方で、つまり〈非他性〉という仕方で、あなたの〈自己〉を鏡のおもてに呪縛してみせる。

 だがこれはまだ自己同一性というものではない。
 そこに慣れ親しんだ自己同一性が見いだされるとき、あなたは〈別人〉を見失っている。

 このとき、〈別人〉はむしろ自己同一性(アイデンティティ)の手前にある。
 あなたはここで仮に〈鏡像〉として現れたその〈別人〉に自分自身を同定(アイデンティファイ)することを中止してみるとよい。

 しかし、完全にそれを中止してしまうと、あなたは〈鏡〉という装置のからくりを忘れる。
 光学的反映という自明な原理を記憶喪失してしまうと、あなたは〈鏡〉というものを理解しない小児的白痴性に逆戻りしてしまう。すると〈鏡〉というものはあなたの世界から蒸発して消えうせてしまう。
 勿論、物理的に消滅するのではないから、それは依然としてそこにあるのだけれども、〈鏡〉という概念が失われるのだ。
 〈鏡〉という概念が失われるとは〈虚像〉という光学的物理現象が分からなくなるということである。

 しかし、これは重要なことだが、イメージが可視的なものとなってとてもリアルに現れる場合があるということを分からなくなるということではない。
 また可視的実物から剥離した可視的映像がその背後に〈何もない〉を抱えただけで出現する場合があるということを理解できないということでもない。
 また、ついでにいうなら、可視的実物から剥離した可視的映像がその背後に〈何もない〉を抱えただけで出現する場合があるということの〈何もない〉は〈誰もいない〉と同じではない。いや、必ず〈誰か〉はいるのである。

 物体や肉体の〈ある・ない〉と人の〈いる・いない〉をここで区別しておきたい。

 無論、〈いる・いない〉は人についてその物理的実体が見える場処において〈ある〉か〈ない〉かを言うために〈ある・ない〉に代わって普通に用いられる言葉である。
 このような〈そこにいる・そこにいない〉という意味で、わたしは〈いる・いない〉を用いているのではない。物の実在と非実在をここでわたしは問題にしたいのではないからである。

 見えるものの背後に実物があるか鏡という虚無があるかを問いたいのではない。
 小児的白痴に戻ったあなたはそこまで白痴になる必要はない。

 例えばあなたはテレビというものがあることを知っていたってよいのである。
 テレビの画面のなかにいる人は無論ここにはいないことをあなたは知っている。
 ここにはいないがその人はどこかそのいるところにいるに決まっている。
 別にもう死んでいてもよいし、全くの架空の人物であってもよい。

 それでもその誰かはテレビに出てくる。
 テレビに出てくる人は全くイメージであるに過ぎないが、そのイメージを通してあなたはその人物のどこかそのいるところにいるということを受容する。
 その実在・非実在とは関わりなく、また所在のいつ・どこに関わりなく、〈誰かがいる〉はその〈誰か〉と不可分にそのいるところに感受される。

 名前も知らず、また、それが何者かを知らなくともよい。
 〈誰かがいる〉は、〈それが誰であるか〉に先行して、既に誰かであるところのそれのもとにあなたを引き渡している。

 その原初的な〈誰か或る人〉は〈いる〉ものでしかありえない。

 〈誰もいない〉はその〈誰か〉の〈いる〉から逆に湧出してくるその居場所からたちどころに排除されてしまう。
 〈誰か〉とはまず〈誰もいない〉の不可能性であり、同時に〈誰かがいる〉ことの不可避性なのである。

 続いてまたこの〈誰か〉とは必ず〈誰かであって別の誰かではない〉という性格をもっている。

 そして、〈絶対に誰でもない人〉(Nobody)ではありえない。

 わたしは奇妙な言い方をわざわざしている。
 この奇妙な言い方を通してしか炙り出せない微かなものの輪郭を定めたいからである。

 〈誰か〉とは、必ず〈誰かその人自身〉であるような存在である。
 それが誰であるかをわたしが全く知らなくとも、誰かは既に誰かであって、その見知らぬ〈誰かさ〉によって内的に構成されきってしまっている。

 それは既に〈誰かになってしまった存在〉として現れる。
 たんにわたしがその人が誰かを知らないだけなのである。
 誰かは既に完成してしまっている。

 わたしがそれを顔や名前やそのほかの何らかの了解に同定(アイデンティファイ)する以前に、既にしてその人はその人それ自身であるところの〈誰か〉に固定されているのだ。

 この〈誰か〉というのが〈他者〉である。

 自他の区別は既についてしまっている。
 〈他者〉は常にこのわたしではないところの何者かである。

 ランボーの言い草として一般にこのように〈翻訳〉されて流布しているたわごとがある。
 〈わたしとは一個の他者である。〉

 しかし、そんなことは絶対にありえないというべきである。
 それならランボーとは誰だというのか、ランボーはランボーではなくてヴェルレーヌだというのか。それとも他の誰かであるとでもいうのだろうか。


 わたしが〈わたし〉と言うとき、それは直ちに、〈他者〉ではないということを同時に意味してしまっている。
 〈わたし〉という発語は既にその瞬間に、ありとあらゆる〈他者〉をその場から排除した絶対的非他性の境位に〈わたし〉を据える。
 自他の区別は決定的にそのときになされている。

 自他の区別はいつどこで始まるのかをわたしは言うことはできない。
 わたしはそれを知らないし、また、そんなこと知ったことではない。
 いかなる歴史のなかにもその起源のときは記され定められることはできない。
 いかなる意味の歴史的時代をもそれにあてがうことはできない。
 この不可能性はいくら強調しても強調しすぎるということはない。

 この区別はいつも既にはじめから明瞭であったという他にないようなものなのである。
 それは言い換えれば、〈わたし〉というものはいつも既に見いだされてしまっているということに等しい。

 自他の区別は寧ろ、いつも〈いまここ〉から始まるというべきものである。
 いつもいまここに見いだされるというべきものである。

 しかし、それはいつも見過ごされやすいものであることも確かだ。
 自他の区別は見落とされやすい。
 見落とされるとき、〈いまここ〉――この名前をもたぬ野晒しの赤裸な場処――もまた見落とされる。

 〈わたし〉、それは見いだされたもの、発見せられたものである。

 発見する(discover)とは覆いを取り除くということ、それはなにごとか一瞬の〈転覆〉を意味する。
 発見によって転覆されるのは〈世界〉である。

 例えば新大陸の発見の以前と以後では歴史世界は二度と元には戻れないがまでに不可逆的で決定的な変貌を遂げてしまう。
 発見=転覆は世界の図面を、世界地図をただそれだけのために隅から隅まで異なったものに塗り替えてしまう。

 発見は歴史的事件となりうるものである。
 しかしそれは歴史的必然として歴史の内部からその内的原理に従って産出されたものとは言いがたい。

 だが、〈わたし〉の発見という出来事(イベント)は、いかにして叙述されるべきか。

 出来事=事件というものはいつも不可思議な偶発事という性格をもっている。
 それは虚を衝き、不意を襲って、いつも予想外の死角から、度肝を抜き、驚きとなってやってくる。

 出来事というものはどんなに小さなものであっても驚異であり啓示であるような性格をもつ。
 つまりそれは一種の〈奇蹟〉なのである。

 〈奇蹟〉とは異常な事態である。
 〈奇蹟〉は必ず〈起きる〉という性格をもつ。
 そしてそれはいつもその人において起きる。

 〈奇蹟〉は誰にでも起こり得るのだが、誰もに起こるとは限らないものである。

 〈奇蹟〉は人を選び、人を別ける。

 〈奇蹟〉は或る人には起きるが、他の人には起きない。
 起きないどころか、他の人にはまるで何事でもない、変わったことは何もないという程に不可視である。