カフカ、悪夢を超えるその澄んだ黒い瞳には恐れの翳が微塵もない。
 それはスピノザの瞳と同じ瞳だ。
 信じられないほどに黒い瞳は、それにしか映らない奇蹟を洞察する特異な理性の持ち主の徴表の一つである。

 これと同じ黒い瞳をもった人を私はかつて知っていた。
 その女性は若くして病いを得て死んだが、皆既日食の太陽のように大きく不思議な黒い瞳と、幻想的な白い百合の花のかたちをした優美な手をもっていた。

 その女性は私によく運命の話をした。彼女と私の運命の話をした。

 それは恐ろしい運命である。彼女は占いをする人で、私と出会ったときにも占いをした。そのとき彼女は自分の運命の札に《死神》を引いたが、眉一つ動かさなかった。

 彼女は恐らくそのとき既に自分が早死にすることを知っており(もちろん通常の仕方ではない)、そのことを覚悟していたのだろう。

 彼女はまだ若かったが尋常の女性ではなかった。理知的で意志の強い人柄が風貌にまで掘り刻まれていて、美しい人だったが、深く黒い影のある異様な感じのする人だった。

 その彼女から、異様で恐ろしい出来事の話を聞いた。
 それは幻視体験なのだとは思うが、余りに悪夢的に生々しいために、それを実体験していないこちらの方が逆にそれはきっと本当に起こった現実の出来事なのだと思わずにいられない迫真性をもっている。

 彼女は少女時代、深夜に姿見の前に立ったときに悪魔よりも恐ろしいものに出会った。それは彼女自身だった。
 真黒な鏡のなかから「私が出て来て、私の首を絞め、私を殺そうとした」のだと彼女は言った。
 それは感情の籠もらない、異常なほど冷徹な感じのする
 ひっそりとした声音で、冷静客観的に言われた言葉だったために、私はまるで私自身がそっくり同じ体験をしていながら、長く忘れていたことを不意に呪縛が解けて思い出したかのように、あるいはまさに今そのことが我が身に起こったかのように、それを聞いて、ぞーっとするというよりも深い、何とも言えぬ悪寒に心の芯が凍りつくような思いがした。
 まさにその彼女の首を絞めたその女、彼女でありながら彼女ではありえないその恐ろしいものが、彼女のその〈別人〉が、今目の前に出ていて、そのときの模様を話しているような錯覚を覚えて怯えたのである。
 彼女は失神して鏡の前で倒れ、やがて意識を取り戻すとその女は忽然と消えていて、自分の手が自分の首にかかっていたのだという。
 私は他人からそれほど無気味で底恐ろしい話を聞いたことはなかった。
 ドッペルゲンガーの出現という異常な出来事は幽霊が出たというより恐ろしい感じのするものである。
 幽霊は霊魂の存在を仮定するなら、出会い得るものであると何となく了解出来る。けれどもドッペルゲンガーの出現は、霊魂の存在を仮定したとしても全く説明のつかない、きっと幽霊でさえ悲鳴を上げて逃げ出しそうな、生きている人間そのものがありえない仕方で化けて出るという底知れぬ実存的な恐ろしさに繋がっている。
 それはそこに「悪魔が立つ」としか言えない体験である。
 
 ドッペルゲンガーが出るのは普通は他人の前に出るのである。それはそうそう起こることではないが、私自身も何度か私のドッペルゲンガーが他人に出たのかもしれないと怪しむ話を聞いている。まさかそんなことはない、きっと相手の他人の空似の見間違いだろうと思うのだが、そう度々、それもお互いに何の関係もない人達から、私がそのとき、そんな所にいた覚えもなければいたはずもないところで私を見たと証言されてしまうと、では一体〈この私〉は何なのかが、自分自身でも忽然と不明瞭な眩暈感のなかにすーっと溶けてゆくような心地のするものだ。
  これは「科学によって解明できないミステリー」などという陳腐な怪談(幽霊話)とは次元が違う不安である。たとい科学によって解明されても(それどころか常識的な他人の空似で説明のつくものであっても)、この現実自体の形而上学的な得体の知れなさに連なるドッペルゲンガーの、心の奥底を抉るような異質な無気味さは掻消すことが難しい。
 ドッペルゲンガーの話が怖いのは、それが非現実だからではなくて、むしろ現実的だからである。或いは、むしろこういうべきかもしれない。幽霊が夢や現実に幻となって出ることは「自然な非現実」であるが、ドッペルゲンガーが現実や夢や非現実に実体となって出ることは、それがたとえ作り話なのだと見え透いて分かる場合であっても、不自然で不可能な感じがするが故に、それはどれほど異常であってもリアルにしか思えないのである。
 ドッペルゲンガーの話が恐怖をもたらすのは、それが本質的に悪夢的で悪魔的だからである。
 人が他人の幽霊に憑り殺される話はそれが現実であるとしたなら、確かに一瞬、身の凍るような恐ろしさを覚える。しかし、それはそれでもどこか現実に有り得るような自然性をもった超常現象であるに過ぎない。それは原因が不明なだけである。人間は死に得るものだし、殺され得るものである。例えば人体発火現象とか騒霊現象といった話はかなり怖いが、しかし人体は燃え得るものだし、物は何かの力が働けば飛び回り得るものである。それはどれ程怖くとも、この現実、そしてこの心を壊してしまいはしない。
 また多重人格の話もドッペルゲンガーによく似てはいるが、こちらは少しも怖くはない。それは有り得る話だからである。例えば私は自分が多重人格であると人から診断されたとしたら、悩んだり苦しんだりはするだろうが、恐ろしいとまでは思わない。そうした異常な出来事はそれがどれ程異常でも、超常現象以上に異常とはならないのである。