パルメニデスは哲学史上最初に〈存在〉という観念が、
蒼白く冷たく暗い陰気な〈一者〉という不毛な幽霊に帰着することを、そして〈私は私である〉或いはA=Aという自同律の真理性がどれほど愚劣で嘲るべき無価値なものに過ぎないかを洞察し、それを実に闊らかなヒューモアをもって表現した賢者だったと考えた方が良い。
 私はパルメニデスという〈人間〉と〈一者〉とを安易に同一視する愚かなプラトニスト達の見解には賛成したくない。彼は〈存在〉の賛美者ではなくて、逆にその観念に対する一番辛辣な批判者であったのだと考えた方がクレイジーではない。
 彼は自同律や存在という人間の思考が一番陥りやすい真理という名前の甘い罠がどれほど無意味で莫迦げた嘘に過ぎないかをヘラクレイトスよりも鋭い言葉で水破抜いた人間である。
 彼が運動の不可能性を主張した逆説家で有名なエレアのゼノンの師であったことはよく知られている。そのことが告げる意味を見失うべきではない。
 逆説家の師は必ずや逆説家である。ゼノンが〈運動〉の不可能性を表現したように、パルメニデスは〈存在〉の不可能性を表現したのである。エレア派の哲学が根本的に価値を置いていた概念は〈存在〉ではなくて、むしろ〈不可能性〉の方である。

 高邁な彼らにとって、不可能性というのは実は全く否定的なものでもなければ忌避すべきものでもなかった。私はエレア派のパルメニデスの実在を信じる。
 それはプラトニスト(特にプロティノスのような新プラトン主義)のパルメニデスではない。存在(それはある)の哲学者パルメニデスではなく、不可能性(それはありえない)の哲学者パルメニデスの方が尊いのである。

 彼は自同律(AはAである)等という人間であるならどんな莫迦でも子供でも知ってもいれば信じてもいる程度の常識的な論理のイロハをわざわざ殊更新しげに疑うべからざる明証的な思考の原理として人に教えようとしたのでは決してない。
 そんなことを主張する人間はパルメニデスは白痴であると主張しているのに等しい。
 彼は自同律や存在の思想を主張したのではなく、逆にそれがパラドクスに陥ることの不可避性を指摘して厳しくそれを批判したのである。

 パルメニデスは恐らく恐ろしく誤解されている。
 自同律や存在の観念の最初の批判者が何故かその正反対の白痴の悪霊の代名詞に変えられてしまったのは実にグロテスクな話である。

 存在が存在し、非存在が存在しない、あるものがあって、ないものはない、ということは、アキレウスは亀よりも足が速いという程度の常識的な見解であって誰もそれに異を唱えることのないものであるに過ぎない。
 或いはまた、私が私であるということは自明であって、それを疑うような人間はまず滅多にいるものではない。
 パルメニデスは逆にだからこそそれが間違いだということを告発しようとしたのである。

 ゼノンは運動概念を批判したが、それで歩くことをやめたのではない。
 同様にパルメニデスは、存在が真に存在するというならそれは〈一者〉のような球体で虚空に独在しているに違いないと主張したが、自分がその〈一者〉なのだと主張した訳ではない。
 本気でそんなことがあるなどと思っているとしたらただのバカである。
 それではまるでヘーゲルではないか。

 パルメニデスという男は、その弟子のゼノンと同じく、風流な男である。
 もしも〈一者〉みたいにヘンなもの(ここで爆笑)しか存在しないのだとすれば、パルメニデスは自分は存在しない(そんなことはありえない!)ということを主張していることになる。
 つまり彼は自分自身の非存在「私はいない」ということを論証しているのである。

 しかし、それは経験的事実と反する。
 経験的事実は逆に、存在ではなく全く非存在こそが実在しているということを告げている。
 それはパルメニデスが現実離れした男だからではない。論理というものが現実離れしているのである。

 パルメニデスが存在の自同律のパラドクスを語ることで示そうとしたのは、自分が幽霊であるということ(プラトニストの見解)ではなくて、〈存在〉こそが全く不毛な幽霊でしかありえないということである。

 エレア派の哲学の本質は徹底的なリアリズムにある。
 それはソクラテスの弁証法(産婆術)よりも怜悧な刃物で論理や観念のつくもっともらしい嘘を切断する思想である。

 例えば、ゼノンは現実の運動を批判したのではなく観念の運動を批判したのである。
 自分に向かって飛んでくる矢に止まれといって矢が止まることをゼノンは現実に要求しているのではない。
 彼が要求したのは、お話しの中にしかありえない観念の矢を現実の矢に置き換える巧妙な「説明」または「解説」という子供騙しな作り話を語って、まことしやかな観念の矢に怯えるような催眠術をかけて人心を操作しようとする嫌らしい自称リアリストと称する不純な動機の観念論者の政治的なその狡賢い口の運動が止まることである。
 ゼノンは飛んでいる矢は止まっていると言うことによって、実は観念の矢を観念論者の舌に向かって撃っているのだ。
 観念の矢が現実の矢と同じものだというのなら、観念論者はそれに当たって死ななければならない。
 もし死なないのだとすれば、観念論者は自分が何故死なないのかを説明してみせねばならない。
 答は一つしかありえない。観念の矢は結局虚妄の矢であって現実の矢ではないからだ。
 更にいうなら観念論者の言っている〈現実〉は、その権利もないのに勝手に〈現実〉の名を騙っている観念に過ぎないのだということである。

 経験的現実を楯にとってそれをもっともらしげに引証して〈現実〉を捏造することは易しい。
 しかしそのように捏造された〈現実〉は結局は〈可能性〉でしかない。
 そして結局〈可能性〉でしかない〈現実〉を真の現実に置き換えることはどんな人間にも不可能なのである。

 エレア派の精神が素晴らしいのは、何かがありえないからあってはならないということを現実に対してではなく、観念に対して、特に観念を用いる人間に対して要求するところにある。
 現実にはありえないことがあってもいいと彼らは非常に寛容に考えているのである。

 パルメニデスは〈存在〉の立場に立って〈非存在〉を退けた〈一者〉の哲学者なのではない。
 むしろ真の争点は別のところにある。
 彼は〈不可能性〉の立場に立って〈可能性〉の無意味さ、またはその無価値さを論証しようとしたのである。

 〈存在〉から〈非存在〉を生成することは出来ないということは、現実的な生成変化の背後に観念的な基体を想定することを拒絶するということである。
 それは生成変化を基体に帰属させないということであり、現実を観念に従属させないということである。それは現実的な生成変化の実在を否認するということではない。観念的な実在が現実的な生成変化を支配するという不健全な考えを排除するということなのである。
 エレア派は現実と観念の間を切断するために逆説を用いる。
 それは現実と観念の間を巧妙に媒介し、連続させてゆく生成変化という安易な論法を難破させるためである。

 他方で「万物は流転する」などといって恰も実在世界の生成流転を称揚しているかに見えるヘラクレイトスは、実際には「私にではなく、ロゴスに聞いて、万物が一者であることを認識するのが智というものだ」というような非常に安易な「ロゴス」及び「一者」の観念の信者であったという面の方が鼻につく。
 ライプニッツの非常に評判の悪い観念論的な予定調和説(吐気のするような弁神論)は、むしろヘラクレイトスのこうした不徹底さから出てくるのである。
 また「思慮は全ての人に共通だ」という、柄谷行人などに言わせればそれこそ独我論(私に妥当することは全ての人に妥当するかのように想定されている思考)の起源であるとしかいえない言葉を残している。
 ヘラクレイトスを実在論や経験論や唯物論の祖と考えること程に恐らく愚かしいことはありえるまい。そうではなくて逆に彼こそが一番たちの悪い観念論者(自称リアリスト)の典型なのである。
……という風に見る事もできるのである。
 もっとも、私自身はヘラクレイトスという人をパルメニデスとはまた違った意味で大好きなので、そういう風にいつも見ているわけではない。ただ通常、人が安易に賞賛してしまっているヘラクレイトスのイメージについていうなら、それは逆に大嫌いであるので、これくらいボロクソに言ってやっても構わない、と思っているだけである。

 さて、問題は、「存在」を語るか「生成変化」を語るかにあるのではない。
 「存在」に「生成変化」を帰属(植付け)させてそれを支配させるかさせないかにあるのである。
 ヘラクレイトスは全てがそこに含まれる全一者を想定して、全ての個物の個別性をそこに抽象的に還元してしまっている。
 そのこと自体は悪ではない。問題はその先にある。
 ヘラクレイトスはそうすることで人間を宇宙の奴隷に変えてしまう。
 それは非常に残酷な非人称的意識への融即を強いる世界だ。
 彼は実におぞましいことを言っている。
 「智はただ一つ、すなわち、全てのものが全てのものを通じて如何に操られるかについて、真の判断を心得ることだ」というのだ。
 それは(もちろん見方にもよるのだが)人が運命の糸に操られるがままになっている神の玩具に過ぎないことがいいのだという超高度管理社会の情報操作やマインドコントロールを肯定するような思想である、とも読めてしまうのだ。

 埴谷雄高は「自同律の不快」ということを言っているが、私にはまさにこのような生成変化=大規模操作の思想こそが不快である。埴谷雄高の「自同律の不快」は「事物の(生成)変化の原動力」と考えられたが、それは何より操られるがままになっていることへの不快に端を発している。