パルメニデスは存在の自同律の自明な真理性が避けがたくパラドクスに陥ることを示した。
そのパラドクスは、形式論理的な決定不能性を帰結するエピメニデスの自己言及性のパラドクス「全てのクレタ島人は嘘つきであると一人のクレタ島人が言った」とは性質の違うものである。
 パルメニデスの自己同一性のパラドクスは実在的なパラドクスであり、論理的な真理「存在は存在する」が実在的な虚偽「そのような存在は実在しない」を帰結するということを示している。
 これは全く異なるレベルで起こっている。
 それによってパルメニデスが明らかにしようとしたのは、論理それ自体が虚偽を含んでいるという恐ろしい事実である。

 パルメニデスが自同律の真理性の主張者であるという通説は単に間違っているというどころか愚劣でさえある。
 彼は自同律や存在の観念に実在的パラドクスによる致命傷を負わせたその最も痛烈で辛辣な批判者に他ならない。
 弟子のエレアのゼノンが運動の観念の不可能性を論証したように、パルメニデスは存在の観念の不可能性を論証したのである。
 それは裏を返せば、可能性の形而上学の批判の意図をもったものである。
 それは不可能性こそが価値ある実在的真理なのだという現実主義的な不可能性の形而上学がエレア派の根本思想にあったのだということを窺わせるものである。

 エレア派の強烈な反現実主義的観念論は、逆に強烈な現実主義的実在論に裏打ちされているものである。
 それはプラトニズムの祖先であるというよりそれとは全く相容れない異質なものであり、逆にプラトンのアカデメイア学派に対する痛烈な批判者だったアリストテレスの実直な現実主義にこそ通底するような感性に根付いている。
 パルメニデスはプラトンが出現する以前にプラトニズムを批判していた。
 アリストテレスとパルメニデスはちょうど挟み撃ちのような仕方でプラトンを追い詰めている。
 そしてまさに両者のプラトン批判の論点は、分有(関与)説に対する痛罵という点において一致する。

 それは「第三の人間」のパラドクスとして知られるものであり、プラトン自身もそこに自分の思想の致命的欠陥があることを対話編『パルメニデス』において素直に認めているのである。

 「第三の人間」というのは、例えば、イデア的実在である人間自体(一般性・類概念)と個別的実体である個々の人間(個別性・このもの)のどちらでもないがその両者を媒介する形相=種差(エイドス)としての人間(特殊性・種概念)のことであると考えてよい。これはいわば論理的虚構(イデア的真実在)のなかに現実的実在(個物。アリストテレスの言う意味での第一実体)を誘拐するための罠のようなものである。

 『パルメニデス』はちょうど十七歳の若きアリストテレスがアカデメイアに入学した紀元前三六七年前後に執筆された作品であるという。そして、非常に不思議な話だが、この作中にもやはり若きアリストテレスという同名異人が登場する。そして、この同名異人のアリストテレスが若きソクラテスと共にエレア派の二大哲学者、老パルメニデスとゼノンに会うという設定になっている。

 この対話編はしかし異様である。
 プラトンのヒーローとしてイデア説を振り回し、常にソフィストたちの揚げ足を取って一方的に論破しては弟子どもの賛美感嘆のまなざしを一身に浴びていたあの無敵のソクラテスが、まるで赤子の手をひねるように老パルメニデスにコテンパンにやっつけられてしまうのである。
 それも打ち破られるのはプラトンの自慢の所説であるイデア論そのものなのである。
 ちょうどこの紀元前三六七年はプラトンの第二回目のシシリア旅行の年にあたる。

 彼は生涯三回シシリアに旅行し、彼の理想である哲人王政治を実現しようとしたが、その度にロクな思いをしていない。この点においてプラトンという人は誰もが認めている通り、現実の政治にはまるで疎い哀れで愚かなただのお人よしのバカモノである。

 同じ堅苦しい理想主義者で、やはり生涯、聖人君子(哲人王)政治の実現を求めて、動乱の中国を放浪して回った孔子にもまた同じように悲しい程に愚かなところがある。
 実際プラトニズムにせよ儒学にせよロクでもない狂った理想主義であるという点で非常に似通ったところがある。どこか根本的にバカなところがあるのだ。それはヒューモアのなさである。

 けれども、これは私の好みの問題かも知れないが、孔子にはプラトンとは違う人間的な魅力がある。
 彼は自分の弱さも愚かさも素直に晒す正直で気取らないところがあるのだ。
 彼は恐らく自分が決して世に容れられないことを知っていた。
 儒学にはヒューモアというものがないが、孔子という人間にはそれがある。
 それはその人柄の芯から滲み出るような品のよい慎ましさである。
 プラトンの人柄には何かが確かに欠けている。
 孔子なら三回もシシリアに旅行して三回も惨めで愚かな救いがたい道化を演じるようなバカな目には遭わないで済んだだろう。

 この二度目のシシリア旅行の散々な結果にはさすがのプラトンも相当に落胆したようである。
 『パルメニデス』にはプラトンの凄まじいやり場のない自己嫌悪がぶちまけられているように私には思えてならない。
 当時六〇歳にして未だに青臭い己れを呪うように、彼は自分の師ソクラテスを若造の姿で登場させ、老パルメニデスの仮面を被って散々にいたぶっている。
 なんと根のクラい男だろう、と思うのである。