「無くは無い」という存在は
 「無くてはならない」ものではない。

 つまりそれは必然的存在ではなく、
 必要不可欠な条件ではなく、実体ではない。

 存在の「無くは無い」は「無くてもよい」もの、
 「在らねばならぬ」ではなくて「無くても構わない」もの、
 「無くは無いが、無いことも有り得るもの」、
 つまり無の可能性に接している。

 常に無は有り得る。
 単に今、無ではない、無はここにない、
 ただそれだけのことである。

 無の可能性、無の〈有る〉の獲得、
 可能的存在の様相における存在獲得、
 それは存在にとって不安なことだが、
 それを消し去ることはできない。

 無は確かに自ら無くなるものだが、
 かといってすっかり無くしてしまえないものだ。

 無は存在し得ないとしても
 無くしてしまうことも出来ないもの、
 どこか恐ろしく決定的に存在よりも必然的なものなのだ。

 存在に付きまとう無の可能性、
 事実に反するとしても反駁することの出来ない
 その無いことも有り得るを消し去ることが出来ないこと、
 それは存在の偶然性ということだが、
 その意味は奥深くそして不吉だ。

 存在はそのおもてから無の影を拭えない。
 無なき存在は、それにも拘わらず、
 無では無いこととして無によって記述されてしまう。

 存在の自己肯定は重く暗い憂いの影をもつ肯定である。
 それは存在が無のなかにしか無い、
 無の内なる存在でしかないということ、
 存在は無を過ぎ去れないということを暗示している。
 存在は無に呪縛されその上に留まる、
 滞留し、相関し、無の許に場処を占める。

 エマニュエル・レヴィナスは
 存在の非人称性を論じた
 「ある=イリヤ(il y a)」ということについての
 印象深い考察のなかで、全く何も無いということのありえなさ、
 無の不可能性について語っている。
 存在しないことの不可能性は
 存在の必然性の恐怖を催す重い呪縛として綴られている。

 それは無気味な体験である。
 全く何も無い状態を想像すると思考は暗黒のうちに没する。
 それは無を純粋な虚無の無として注視しようとすることであるが、
 それは不可能である。
 「何も無い」というこの無は虚無ではなく空虚の充満となって
 却って存在からの仮借ない出口のなさをおしつけてくる
 非人称の闇の渾沌の直接的な現前となる。

 これやあれはもはや無く、
 主語的な「何か」は無くとも、
 述語的な「ある」の轟きは消えない。
 あれやこれやの存在者が消えうせたとき、
 のっぺらぼうの存在そのものが浮上して存在する
 という出来事を避けられない。
 必ず無は存在に塞がれてしまうのだ。

 レヴィナスはイリヤに於いて
 「全く無い」ということこそが
 「全く無い」ということを強調している。
 しかしそのことによって
 全く無なき存在に到達したとは決して言えない。
 それは逆に極限の存在様相であるイリヤを〈無の無さ〉、
 或いは無が無ではなくなる「無くは無い」として、
 無の自己否定として、つまり無の一様相として描いているだけの話である。

 レヴィナスは「想像的破壊」(B・フォルトム)によって
 「全く何も無い」という意味での「無」を考察することによって
 存在からの悪夢的な脱出不可能性としてのイリヤを
 われわれの思考の宇宙の
 その先を考えることのできない極限概念として導く。

 しかし、彼は「全く何も無い」という「質料包含的」で
 単に実然的=言明的な様相での「無」を批判しえているのに過ぎない。
 それは「無」としては弛緩した無であり、
 単にものが無いという意味での、否定度の弱い無である。

 「厳密包含的」な無、確証的=必当然的な、
 よりきつい様相での厳しい無については彼はそれを斥け得てはいない。

 「全く何も無い」は無の概念の核心を衝いているとはいえない。
 むしろ「全く何もありえない」という無、
 不可能性としての無の様相を想像するべきではないのか。

 「全く何もありえない」状態を想像しようとすると、
 それは思考を完全に締め出す。
 しかしこの不可能性としての無の厳しさには、
 存在にたやすく転化しはしない無の抵抗というべき何かがある。