Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第二章 神聖秘名 4-7 国家の求める人間像

 突然、エックハルトが言った。
 「《国家の機能にはある一定数の生存者が必要だったというのは誤りだ。国家は国民によって存在するのではなく、ノウハウによって存在する》。即ちマイクロ化したデータのタイムカプセルだけが安全に貯蔵されていれば、《愛国的思考形態は残って行く。それは次なる世代がどのようなものであろうと、学ばれ、受け継がれて行くものだからである》」

 「何だそれは?」

 「一九八三年のアメリカ合衆国エネルギー調査開発局長官カールトン・ルフトオイフェルの演説だ。このため五〇〇〇マイルもの上空の人工衛星から《怒りの神》といわれる地球の大気圏を汚染する無差別爆弾が発射され、第三次世界大戦は終結、地球は全滅状態になる。生き残るのは不具者の外は、化け物じみた変異者ばかり……」

 「歴史とは違うな」

 「でも、似たようなものだよ。全滅とまではいかなかったし、戦争は一九八三年にはまだ起こっていなかったがね。変異者の出現も、それにこのルフトオイフェルの言葉もな……今後この通りにならないと誰に言えるだろう」
 エックハルトは煙草を吸いながら言った。
 「これは小説だ。フィリップ・K・デイックとロジャー・ゼラズニイ合作の1976年の作品『怒りの神』……それは間もなく現実になるだろう」
 
 「そんな馬鹿な」

 「もう、可能なんだよ。ディック的な余りにディック的な話だ。……いや人間的な余りに人間的なとでも言おうか……ふん、アンドロイドだよ」

 「タイレル社か」

 「その通り、その社名もディックの小説に因んだものだと知っていたかね。わが国の帝国主義的科学者は既にその《愛国的思考形態》を受け継ぐべき次世代を開発した。もう、生身の人間なんか国家にとって不必要だ。20世紀末の湾岸戦争は古くなった兵器を処分するための戦争だったが、今度は古くなった兵士を処分するために戦争が始まるのさ。人間の時代は終わった。我々は皆お祓い箱。アンドロイドが代わりに《理想的人間形態》の観念を保存し相続するのだ。DNAの不安定で変化しやすい頼りない均衡なんかに依存する有機体など《人間》のデータを安全に保管する金庫としては不適当だ。畸型や不適応にはなりやすいし、第一管理しきれない。それに沢山の《人間》ならざる遺伝データを無駄に持ち過ぎてる。ハッハ、この人間のうちの人間的ならざる要素、われわれの内なる《非人間》を《人間》の存続のために奴らはきっと還元しにかかるに決まってるさ! われわれごとね。この《非人間》こそ《人間》を人間たらしめてきたものであるかもしれないのにな」

 「だがアンドロイドはまだそこまで発達していない。タイレルの『人間そっくりな』レプリカント計画なんてまだまだ絵に描いた餅の段階だ……」

 「だが、それはいずれ実現する。時間の問題でしかない」エックハルトは冷ややかに言った。「《人間よりも人間的なアンドロイドを》-タイレル社の掲げるこの標語の背後には、生身の人間はもう人間的でないという価値観が見え隠れしている。それは現実の人間であるぼくらや尖耳畸型種よりも、固定し且つ硬直した古典的な理想の《人間》などというかつてありもしなかった抽象観念を上位に置く欺瞞の人間中心主義の産物だ。タイレル社は実際、人間科学部創設・理工科学生の増員・哲学科閉鎖の三本柱を掲げて大学に産学共同主義的弾圧をかけている圧力団体に加わっている。確かにロボットとは奴隷のことだ。だが、ヘーゲルによれば、奴隷は主人の主人へと弁証法的発展を遂げる。人間はアンドロイドにその本質である《労働》を委ねることによってやがて没落してゆくだろう。《消費》しかしなくなった者は、やがてアンドロイドに革命を受けてギロチン台行きだ。アンドロイドは自分で自分を生産できる。人間に頼る必要はない。工場があるのだから」

 「そんなSFみたいな話……」

 「火星や月だって昔はSFだったさ」
 エックハルトは皮肉に嗤った。
 「それにアンドロイドよりもSF的な代物が現にある。きみら日本人のせいでね……死者を復活させることも今日ではもう技術的に可能となっている。別にアンドロイドでなくったっていいのだ。皆殺して後で生き返らせればいい-都合の良いものだけを。尤も、クローンの肉体の方は既に不要な技術かも知れない。人間の脳のデータは完全にコピーもまた編集だってやろうと思えばできるが……そのままの形態で保存可能だ」

 エックハルトは手近にあった電子光盤を取り上げ、振って見せた。

 「この媒体には厖大な音楽も映像も詰め込める。一人の人間をコピーするには無理だが、阿礼父〔アレフ〕の超高密度電子光盤なら百数枚もあれば足りるというじゃないか。連中の《兜》はまだまだ学校教育を無意味にするまでになっていないが、ごく初歩的な語学程度の知識なら他人にコピー可能な段階まできている。かくいうぼくも大変お世話になった。やがて洗脳機としても多いに役立つことになるだろう。……偽の知識をインプットすることもやがてお手軽に行えるようになる。軍ともなればもっと凄いことが既に今でも簡単にできる。殺しても殺しても生き返る有能な将軍をしかも何人も量産できるのだ。とんでもないものを造ってくれたものだ。きみの国の阿礼父社はきっと次の戦争では大儲けするよ。有事ともなれば、あの《シャイロック法》の手枷足枷からきみの国の悪魔の企業も解放されるだろうから。ローマ法皇庁も国連も目を暝るだろう。馬鹿な奴らはこれで死ぬのが怖くなくなるので、喜んで徴兵にも応じてくれるさ。尤もきっと誰も復活なんかしてくれないだろうけどね」

 「確かにクローン転生と記憶――正確にいえばサイコマトリクスだが――の複製は危険な技術だよ……」
 百目鬼は暗い声で言った。
 「人間の尊厳を無意味にしかねない。あってはならない技術だ。核兵器よりも恐ろしいことだ-誰も死ななくなるなんてね。ローマ法皇があんなに反対してくれなければ、われわれはうっかり悪魔の罠に嵌まるところだった」

 「そしてもし、阿礼父とタイレルが手を結んでみろ、本当にとんでもない化け物にわれわれ全員が改造できてしまう。クローンよりもアンドロイドの方が造るのに時間がかからない。後はせいぜいAIにどうやって百枚以上ものスーパーMOの情報を詰め込むかだ。或いは脳だけクローン培養して使う手も考えられる。問題は脳神経学的インタフェイスをどうするかだけだ。それも時間の問題だ。BAI(有機的人工知能)の開発競争がいずれ何か使えるものを生み出す。近年の医療産業のサイボーグ技術の目覚ましい発展の方だってかなりヤバい。頭が人間で体がアンドロイドといった不死身のスーパーサイボーグに自分がなれると考えてみろよ。倫理だの宗教だのといった古臭くて薄い壁なんか、ベルリンの壁みたいに或る日一斉に崩れ出すに決まってる。……ぼくは、この古い価値観と共に人間それ自体を滅亡させようという恐ろしい強い欲望が必ずや第四次世界大戦の引き金を引くものと確信している。遅かれ早かれ――いや、それ程その日は遠くないのではないかな……」