不可視の神が僕を書く。
 僕は不可視の神の下僕の僕。
 僕は現実の男、神沢昌宏、彼の落書きに過ぎない。
 僕は一人の魔術師イプシシマスとして、
 彼と融合し、消尽し、彼の内に残存する一人のスーフィーである。
 僕は不可視の神の命を受け、
 もう一人の現実の男、私=神沢昌宏という同名異人をこの僕に書く。
 それは形而上学者で、不可能性の問題を考察するために、
 僕から魔力をすっかり抜き取った一つの抜け殻であり、
 僕がこの現実に書き込んだフィクションである。
 こうして私が語り始める。僕の身代わりとして。僕の影に脅えながら。

  * * *

 1997年、透明な存在の不快は人間に殺人を唆す。
 1947年、哲学者エマニュエル・レヴィナスは、
 この透明な存在の不快を、存在の悪寒と捉えながら、
 古いプロティノス神学に助けを仰ぎつつ、
 『実存から実存者へ』を書いている。
 そこで彼は、この透明な存在を、フランス語の非人称構文で、
 文字通りの逐語訳では「彼(それ)が、そこに、持つ(所有する)」
 という風に読める、
 英語の《There is》にあたる表現《il y a》(~がある)を用い、
 〈非人称のイリヤ〉と命名している。

 存在の非人称性・没人格性・非主体性・無名性を表すイリヤは、
 人間から人格を奪い、剥ぎ取り、消し去ってゆく、
 悪魔のメドゥーサの視線のようなもの。
 
 正確にも非人称化を意味する病名、
 離人症(depersonalisation)の患者は、
 常にこの透明な存在の夢魔イリヤによって
 生命の優美な様相が消し去られ、
 自分の人格の尊厳が無限に無意味化され続ける災厄にさらされている。

 それは普通の恐怖よりももっと悪い恐怖である。
 透明な恐怖、怖がることさえ許されない凍結の恐怖である。

 彼は自分が全くいない世界を凝視めなければならないし、
 その自分が何処にもいない世界から逃れることが出来ない。
 それは苦しむことさえも許されない辛さである。
 自殺することさえ出来ない絶望である。

 実を言えば、僕は1989年4月23日の27歳の誕生日に〈愛〉を知るまで、
 とても長い間、この離人症の透明な独房に監禁されていた男である。

 彼の記憶によれば、既に13歳の頃にはもう発病していて、
 そのときからほぼ14年間、かなり重度の抽象の絶望の呪縛から
 一歩も外に出ることが出来ないでいた。

 時間も空間も言語も思考も無機化されて壊れていた。
 それは人間の生きられる現実ではない。
 単に死ぬことが不可能だという
 自殺に対する絶望だけで彼は物理的に生きていただけ。
 単に狂うことが不可能だという
 発狂に対する断念だけで彼は理性的に生きていただけ。

 知力を駆使し、壊れた現実を、
 一瞬一瞬、意志だけの力で、
 辛くもどうにかつなぎ合わせ再生しては、
 自分がどうにか生きているような振りをするだけで精一杯だった。

 悲しくても泣けない。怒りたくても怒ることが出来ない。
 感情は、心は、魂は、手を伸ばせば伸ばすほど、
 とおくへと逃げ去っていってしまう。

 だから彼は感情でさえも理性の力で人工的に作った。
 自分の性格でさえ全くの虚無からそれらしいものを作って仮面にした。
 人間を演じること、いもしない自分がまるでいるかのように振る舞うこと、
 そうやって僕であった彼は生きた。

 彼を支えたものはただ一つだけの信念だ。
 
 自分はもう死者よりも死に、
 狂人よりも狂ってしまっているかもしれない。
 人間ですらないのかもしれない。
 それでも人間として生きたい。
 人間として人間を心から愛せる人間に蘇りたい。
 それを諦めて、この万物が虚無の氷河に包まれたような現実に屈し、
 心を、もう辛さの塊のように化石になってしまったような
 この「僕である」というだけの小さな心を、
 虚無の悪魔に捧げてしまってはお仕舞いなのだ。
 人間であるということだけが価値である。
 僕はその他の何も決して信ずるまい。
 全世界は悪魔の手先のように冷笑に満ちた様相を呈している。
 それでも僕はこの誰一人人間のいない世界に、
 人間のいる世界を必死に描いて生き続けてやる。
 奇蹟が起こるかも知れない。
 ありえないことがそれでも一度は起こるかもしれない。
 空に神はいない。
 でも僕はその神のいない空に祈り続けることをやめるまい。
 神しか僕を救えないのだから、いない神に祈り続けるしかないのだ。
 この祈りよ、天に届け、大地を震わせよ、神なき世界に神を生み出せ。
 神がいないなら、悪魔でもよい。せめて悪魔でもよいから、目覚めよ。
 無の塵を払って覚醒し、僕の声を聞き届けよ。
 虚無の無意味に帰した世界に、意味を再生させられるのなら、
 その意味が全き悪であったとしても構わない。
 偽りの善に万物が覆われ、このみにくい嘘が永遠に続くよりは、
 悪の意味だけでも本物の意味、真実の意味をもっている方がましである。
 非現実の天国の夢を見させられ続けるよりは、
 地獄の業火でもよいから美しい現実となって出来せよ。
 そうすれば僕はそれを心から愛するだろう。

 実はこの彼は27歳のときにその心が爆発して死んだのである。
 それがこの文章で「僕」と称して語っている人格である。
 彼は死んで〈愛〉を残した。私はその〈愛〉のなかから生まれて来た。
 私は彼の身代わりである。彼の死に大きな負債をもつ。

 私もしばしば彼から引き継いでしまった
 離人感や抑鬱のフラッシュバックに襲われる。

 それを私は彼ほど冷静に冷酷に睨み返し、
 それを克服して生きられるほど強くはない。
 もはや私はイリヤを正視することは出来ない。
 それは彼だけが持っていた奇蹟の力だったのだから。
 
 離人症について、私はそれを想起することさえ不可能だ。
 二度とあんな世界には戻りたくない。
 想起すればまた同じものを見る。
 見てしまうともうおしまいなのだ。
 そのなかに取り込まれてしまう。
 だから直視することを私は拒絶する。

 メドゥーサの視線をかわすために
 私は論理の鏡の盾と透明の鎧を纏う。
 僕にはメドゥーサの視線に、
 同じようなメドゥーサの視線で
 直接に立ち向かうことが出来ていた
 (つまりそれしか出来なかった)が、
 今の私であるこの私には他のやり方が出来る。

 何故、いかにして、彼が離人症を病むに至ったのかを
 客観的に、脇からのように、違う角度から眺めることが出来る。

 私にはもう彼の眺めていたものは見えない。
 しかし彼がどんな状況にあり、
 どんな装置によって離人症にされてしまったのかを、
 心理としてではなく、論理的必然性として
 客観的に考察し了解することができる。

 同様の状況に置かれれば、
 誰でも彼のように離人症患者にされてしまう。
 離人症とは正確には病理ではない。
 論理的必然性である。

 もしも病理があるとすれば、
 それは離人症ではなくて、
 意識そのものが既に病い以外の何者でもないのである。
 離人症は単に心の正常な反応に過ぎない。

 彼はみずから離人症になったのではない。
 人格を消され、非人称化されたからそうなっただけである。

 実際には彼は人格の尊厳も生命の優美も一度も喪失などしていない。
 にもかかわらず、それが全く意味をもちえない状況に
 置かれていただけである。
 有るものが恰も無いかのようにしか体験されえない状況に
 彼は置かれていた。
 自分ではない全くの〈別人〉にいつも置き換えられていただけの話である。

 〈別人〉とは、
 対人恐怖症患者の不可視の恐怖の対象を名指す言葉として知られている。
 離人症を精神病理学者はよく精神分裂病(統合失調症)の前駆症状に
 結び付けて論じやすい。
 特に現象学系哲学の悪影響を受け過ぎた現存在分析系の学者に
 その傾向が顕著である。

 しかし、その理解の仕方には問題がある。
 離人症はむしろ自分の側に折り返された対人恐怖症の
 存在論的に論理化された表現と考えた方が分かりやすい。

 離人症・対人恐怖症は、神経症でも精神病でもありえない。
 それは〈別人〉という病なのであり、
 病んでいるのは患者の心理なのではなく、現実の方なのだ。

  離人症は、自分が別人に置き換わる病であり、
 対人恐怖症は、他人が別人に置き換わる病である。
 それがそれぞれの病のロジックの端的な基本形である。
 
 〈別人〉は日本型のイリヤであると考えてよい。
 ただし、これは〈非人称〉とはいえないし、
 レヴィナスのいうような〈存在〉でもない。
 むしろ〈別人〉は〈不人称〉の〈様相〉である。
 したがって、それは存在論的にも倫理学的にも捉えることが不可能である。

 主体性の問題を考える場合に、
 存在論はそれを自己同一性(存在)の問題として捉え、
 倫理学はそれを自己関係性=自己言及性(意識)の問題として
 捉えてしまう。
 これは端的にいって欠陥である。
 主体性の問題は自己表現性(様相)の問題として捉えない限り、
 それは必ず反人間的な様相である〈別人〉を強化することにしかならない。

 〈別人〉に接近するためには、
 「存在/無」という述語的二値論理に呪縛された存在論的ものの見方や、
 「自己/他者」という主語的二値論理に呪縛された
 倫理学的ものの見方から出る必要がある。
 これはいずれも「真/偽」の二つの真理値しか持たない
 論理学の枠組みを前提してしまっている。
 そのような思考の枠組みから出なければ、
 本当の問題は決して見えて来ない。

 〈別人〉は存在するのでも、しないのでもない。
 それは自己でもなく、他者でもない。
 つまり、自分(自己)と他人(他者)は別人である。
 同様に、存在と無は別人である、といってよい。

 二値論理は排中律(第三項排除規則)に従っている。
 別人は排中律を根拠づけながら、
 自身はそれによって排除されて隠蔽され、
 原理的に把握不可能なものになってしまう。

 レヴィナスが〈非人称のイリヤ〉と命名しているものは、
 基本的にこれである。
 それは別に難解な概念ではない。
 子供達は誰でもそれを知っている。
 それが難解に見えるのは
 〈大人〉の〈意識〉からそれを見ようとするからである。

 より正確にいえば、〈大人〉とは〈意識〉のことである。
 それは同じ概念であるに過ぎない。
 そして、この〈大人〉とは既にそれ自体が
 〈別人〉になってしまっているのだから、
 そのおぞましさを決して認めようとはしないのである。

 この問題は、基本的にいって単に愚劣なものである。

 〈別人〉とか〈イリヤ〉とかいうものは、
 子供達の言葉でいうと〈鬼〉である。
 鬼ごっこや隠れ鬼の遊戯のなかで、子供達はこれと戯れて生きている。

 童謡のなかには、この〈鬼〉の観念に触れているものが少なくない。
 「赤い靴」の〈異人〉さんや、
 「カゴメの歌」の〈後ろの正面〉という不可能な場所に立つ〈誰〉は、
 いずれも透明な殺人鬼・不可視の誘拐魔である
 〈イリヤ〉の鬼に触れている言葉である。

 それは〈怖い〉存在だが、子供達はそれを
 〈恐れ〉てはいないし、〈畏れ〉もしていない。

 〈おそれ〉と〈こわさ〉は元来別である。
 恐怖とか畏怖というのは、
 純粋な怖さ(それは〈強さ〉に通じる)を失った
 愚かな大人だけが持つ感情である。
 その根本は〈危惧〉であり〈危ぶみ〉である。

 純粋な怖さと戯れる子供は、怖いもの知らずである。
 怖いもの見たさ(好奇心)はあっても、
 怖いもの知り(物識り・知識)はない。

 その代わり、得体の知れぬもの、
 (もののけ)への〈怯え〉というものを知っている。
 怪しむということを知っている。

 鬼ごっこや隠れ鬼のなかで、子供達は〈気〉としての〈鬼〉と戯れる。
 そうやって、〈気づく〉ということを学んでいる。
 〈気づく〉とは面白いもので、
 そこには何の根拠もない創造的な閃きだけの事件である。

 他方、〈察する〉という嫌らしい想像に基づく愚劣な心理学を
 子供達は知らない。
 他者を察してしまうとき、
 他者は別人にすりかえられてしまい、分かられてしまう。
 そのとき、他者の表現は消されている。

 察しの良さを美徳とする思想は非常に危険である。
 それは気づく力を人間から奪ってしまう。

 察しから生まれるのは必ずや警察国家である。
 察しそれ自体が既に警察的だからである。
 それは絶望的に鈍感である。

 感受性の麻痺した人間、生き生きとした想像力を失った人間、
 それは察しと思いやりと優しさという倒錯した美徳の崇拝から生まれる。
 それは裏を返せば、自己表現性を自己否定し、
 抹殺してしまった空しい人間であるということだ。

 子供達は気づくことによって生きる。
 気づく力だけが彼らの気力となる。
 気力のある子供は実に美しく気高いものとなる。
 気品のある子供は自然な遊戯からしか生まれてはこない。

 子供達は鬼である。

 鬼になるという不思議な変身の力を子供達から奪ってはならない。
 子供達は鬼を生きる。
 それは心を鬼にすることとは違う。
 心を鬼にしてしまうことこそ日本の大人のもつ最悪の悪徳である。
 子供は単に鬼になるだけである。
 それが童心というものだ。

 童心は鬼になっても心を鬼に取られてしまうことはない。
 しかし、気取ることを覚えてしまった大人は
 既に鬼に心を食われてしまっている。

 子供は気取らない。単に気づくだけである。
 気に色気づいて人を好きになる。
 この単純に人を好きになる心を奪おうとしたり、
 操作しようとしたり、管理しようとしたりしてはいけない。

 好きであるということ、
 その自然な好意を歪めずに表現することを奪われて、
 人間は人間らしくは生きられない。

 それは裏を返せば、人を嫌いになる力、
 嫌悪の表現をも人間は断じて奪われてはいけないのである。
 好き嫌いをはっきり言うことは
 人の人品を育む上で最も大切なことなのである。

 ところで〈大切〉とは何か。これは〈大事〉ではない。

 〈大切〉とは〈切る〉ということである。
 それは〈切る〉こととしての判断力の問題である。
 〈大切〉とは自ら判断して、〈鬼〉に、〈別人〉に遭遇しながら
 それをかわして生きるということである。
 何が大事かということはその後に来る問題に過ぎない。

 大人は〈大事〉という価値を一方的に子供に押し付け過ぎる。
 すぐに物事を大事にして騒ぎ立て過ぎる。
 また子供を大事にすることによって、大切なことを奪っている。
 そんな大人は子供にバタフライナイフで切られても仕方がないのである。
 切ること、刃物をもつことは、子供の本質である。
 切ることは、知性の活動そのものの原理だからだ。

  * * *

 〈別人〉は、可能性・不可能性・必然性・偶然性の
 四つの基本的な様相概念から出発して
 それを見つめなければ把握不可能である。
 つまりそれは真・偽の二値しか持たない通常の論理の枠から
 いったん出ないことには掴み切れない存在である。

 〈別人〉は、不可能者である。
 つまり通常の現実的存在者とは同じ範疇に入らない存在である。

 例えば離人症は、自分が〈まるで別人のよう〉に感じられる病であり、
 対人恐怖症は、他人が〈まるで別人のよう〉に感じられる病である。
 〈別人〉は常に〈まるで別人のよう〉という仕方でしかありえない。

 しかし、これをヘーゲルかぶれの昔の左翼系思想家が
 よく安易に振り回したあの便利なようで全くぞんざいな論理である
 疎外論(自己疎外)で見るべきではない。

 ここにあるのは疎外感ではない。
 ここにあるのはもっと端的な不可能感としての異質感・違和感である。

 離人症は、自分が事実的・現実的に自分自身でなくなる病気でも、
 存在しなくなる病気でもない。

〈私は私である〉も〈私は存在する〉も壊れてはいない。
〈私は他者である〉とか
〈私は存在しない〉とかいう現実的事態が出来しているのではない。

 むしろ崩壊してしまっているのは現実性ではなく可能性なのである。
 喪失されているのは現実ではない。
 可能性が失われている(奪われている)のである。

 つまり、私は私であるし、私は存在するのだが、
 にもかかわらず、私は私でありえず、私は存在できないのである。
 〈私は私でありえない〉〈私は存在することができない〉という
 不可能性の様相を体験しているのである。

 これは離人症患者に全く知的障害が見られず、
 逆に却って常人以上に知的卓越性を示す者が多いという
 奇妙な事態をよく説明している。
 離人症者の訴える無能感や不可能感は全く主観的なもので、
 逆に彼らは他人の目から見ると非常に有能だったりするのである。

 僕もそういう青年であった。
 概して品行方正な優等生で頭だけは異常に冴えていた。
 知力だけの怪物である。

 それにも拘わらず、自分は他の誰よりも劣っている、
 無力であるという苦しみにさいなまれていた。

 いくら優秀であろうとその能力を
 自分のやりたくないことばかりに強制されているなら
 人間は能力を発揮すればするほど不幸になるだけである。
 いくら有能だろうとそれは別人が有能なのである。
 本人は同一人物のなかで力を奪われて卑しめられ続ける。
 生きているのは別人であって、本人ではない。

 僕は人生を奪われた人間だったのだ。
 愛の歪曲のために。
 全ての僕の言葉を必ず違った意味に置き換えてしまう
 息子思いの父母のために。
 自分の意志が全く意味をもたない人生が人間には当然なのだと
 信じ込んでいる父母のために。
 息子を全くの別人に置き換えてしか見ることの出来ない父母のために。
 僕は死を生かされていただけである。

 父母が愛していたのは僕の死体である。
 彼らの理想の息子はつまり〈死ねば良い人〉だったのである。

 〈死ねば良い人〉というのは
 〈生きてさえいればいい人〉というのと同じである。
 生きることですら一挙一頭足、父母のための義務になっていた。
 人間の尊厳の最後の権利である自殺の権利さえ剥奪されていた。

 死ぬなとは生きるなというのと同じだ。そのような人生は耐え難い。
 一瞬一瞬が断念と失望の繰り返しである。
 自分の願いは決して叶わない。自分の心は決して通じない。
 他の人たちと僕だけが違う。
 僕の願い、僕の言葉、僕の人格、僕の意志だけが抹殺される。

 今、僕は深い悲しみと怒りを覚えながらこれを書いている。
 けれども、それは今の僕に心があるからである。
 この苦しみが心である。

 悲しみや悔しさや怒りを感じることが出来るこの苦しい心は
 本当に素晴らしいものだ。
 以前にはこれは恐怖に押し潰され、あってもなかった。
 それが今、僕のなかにある。生きている。
 心が叫びを上げて生きている。
 永劫に静まらない呪詛と憤怒と憎悪の嵐のような心、
 怒号する雷鳴と炸裂する原爆、恐ろしい凶暴な光景、世の終わり。
 これでいい。これが心であってよい。
 僕は今、愛を知っているのだから。