Cogito, ergo sum, ego sum qui sum, sive existo.

 Cogito, ergo sum. 我思う故に我在り。

さて、デカルトの名と共に常に引き合いに出される、そしてしばしば非常に悪名高くもある、この余りにも有名な名文句の真意がいったい何であったのか(たぶん永久に結論の出ない、正解というものの無い問題)について、異論とか反論とかいうのではないが、僕は普通に解釈される筋合いとは、ちょっと違った風に考えてみたい。

 デカルトは正確には《cogito ergo sum》と書いたのでなくて《cogito, ergo sum》という風に、《我思う(cogito)》と《我在り(sum)》をカンマで区切っている。
 僕はこれを昔の柄谷行人の言葉をつかって言うなら、いわば「暗闇の中への跳躍」の痕跡なのだと解釈する。それは《我思う》というあらゆるものが不明性の灰色の闇に没する底なしの懐疑の暗がりから、《我在り》という明るい曙光に照らされた現実の生の次元への感動的な跳躍の跡に他ならない、という風に。

 そこで、ラテン語では表記されぬままに落ちてしまう《cogito》と《sum》の隠れた主辞、二つの隠された《我》の顔についていうと、これは同じ《我》であるといえるのだろうか? 
 つまり古くから真理の根本的な明証とされてきたA=Aの自同律の明証と、デカルトの言い放ったコギトの明証は実は全く相容れないものであったのではないだろうか。

 前者、自同律の明証性は《思考と存在の一致》という古くからの真理の条件をあらわす思考の原理と表裏一体だ。
 もしデカルトがさんざん懐疑の地獄巡りをした末に、たんに《思考することによって自我の存在が確認される》というような至極つまらないことを言ったに過ぎないとしたら、『方法序説』は随分とつまらない本に成り下がってしまうだろう(そういうつまらないことを大層有難がってしまう不思議な頭の構造の人たちが実際には非常に数多くいるといううんざりする事実はこの際措いておくことにする)。

 僕は、デカルトの《コギト・エルゴ・スム》は、《私は私である》の自同律とはまったく逆に、《cogito》の〈我〉と《sum》の〈我〉は全く異なる〈我〉であること、いわば両者はむしろ別人であるということを言い切っているのではないかと考えてみたい。
 埴谷雄高風にいうと自同律の不快(「俺は」と言いかけて「俺だ」と言い終えることのできない不快。何故ってそれは尤もらしい嘘に過ぎないから)がきっとデカルトにもあったに違いないのだ。
 そして、デカルトは《sum》の境位において、埴谷が〈虚体〉と呼んだもの、「もはや我ならざる我」をすでに発見していたのではなかろうか、そんな風に考えることを僕は好むのだ。

 では、その〈虚体〉とは何か? 僕はそれはこの美しい現実のこと、夢ではないこの現実が本当にあるのだという発見だったのではないかと思う。

 『方法序説』のなかで一番重要なのは、懐疑の闇の中でデカルトが神について考えるくだりだ。

 底知れぬ懐疑のなかで、彼は彼を決して欺くことのない神に出会い、そして神と共に《我在り(sum)》と宣言している。

 この《我在り(sum)》という語は、ラテン語聖書においてモーセに現れた神が自らの名を告げて言った言葉《我は在りて在るところのものなり》と共鳴している。

 つまりそれは神名の宣言に他ならない。

 デカルトは実は思考によって存在を確証することは出来ないという不可能性の体験を《cogito》の懐疑において語り、だとすれば何が存在(実在)を確証(あるいはむしろ創造)するのかと問うて、神の創造がそれを確証するという確信に達した。

 つまり、不可能なるが故に我在りということである。

 ここでは不可能性が全く否定性を含まないポジティヴなものに反転している。
 翻っていうならむしろ可能性こそが否定性、まったく無力な否定性に過ぎないのだ。

 《思考と存在の一致》とは何だろう? 
 それは全ては自分の見る夢に過ぎないのだということと同じである。

 これは虚無主義に過ぎない。夢とは可能性の呪縛なのだ。可能性(思考)という脱出不能の悪夢に囚われ、永遠にその実現であるはずの現実の世界に誕生できないという苦しみである。
 デカルトの懐疑は、何より世界の全てが夢ではないか、全ては自分を欺こうとする根源的な夢魔である悪魔が作り出した虚妄なのではないかという悪夢だった。

 夢の中ではものはそれを思考すればそこに在るように見えてしまう。そしてそれが本当には無いのだということは決して見えない。夢から目覚めることが無い限りは。

 ところで、夢から覚めること、それは自分の意志によっては決して為し得ないことである。
 それは〈行為〉ではなく、〈出来事〉なのだから。

 そしてこの〈出来事〉において、人は現実の触発を受けて目覚める。

 デカルトが〈神〉の語で言っているものは、何もその語から類推されるように宗教的にご大層なものではなく、単にこの目覚めというありふれた出来事の全き現実性(そして主体のどうすることもできないその受動性)のことなのではなかろうか。

 しかし実はこれこそが本当は大層なものなのである。

 それは現実性が可能性の実現ではないこと、可能性には遂には還元不可能であるということ、したがって不可能であるが故に奇蹟として実在するのだということを意味するのだから。

 余りデカルトがこんな風に語られることは無い。
 だが、僕は彼の上ににとても感動的で力強い不可能性の思想家の像を思い描きたいと思う。
 誰もそれを知らない、僕だけの不可能性のデカルト、それが真のデカルトでなくても構わない。
 何故なら僕の虚構のデカルトの方が、きっと遥かに美しく、そして意義深く、また真の意味において、全く「現実的」な思想家であるに違いないのだから。





著者: フッサール, 浜渦 辰二
タイトル: デカルト的省察



著者: デカルト, Ren´e Descartes, 谷川 多佳子
タイトル: 方法序説



著者: デカルト, Ren´e Descartes, 谷川 多佳子
タイトル: 方法序説







著者: ルネ デカルト, Ren´e Descartes, 三宅 徳嘉, 青木 靖三, 赤木 昭三, 小池 健男, 水野 和久
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著者: 山口 信夫
タイトル: 疎まれし者デカルト―十八世紀フランスにおけるデカルト神話の生成と展開



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著者: 所 雄章
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