パスカルは、デカルトを「無益にして不確実なデカルト」というかなりひどい言葉で評している。

 だが、パスカルは理解していない。彼が「この無限の宇宙の永遠の沈黙が私を恐れさせる」といったその無限を、デカルトは恐れもせず、それをただ敬虔に〈神〉のために、それを神の名のために取っておくといったのだ。
 僕は、パスカルを嫌いではないが、彼は自分がそうであると思ったのと正反対に、哲学的思考の厳格さのみならずその敬神の精神においてすら、デカルトに遥かに劣った人間、迷信のうちに畏怖するだけの人間でしかなかったのだと最近、思うようになった。

 人間は決して考える葦などではない。
 
 偉大にして荘厳な神は、人の心を恐怖によって縮減することはしないし、自ら卑しめるように考える事を決して望んではいない。

 陰鬱にして不明瞭なパスカルには、そもそもデカルトが発見した、神によって創造された生き生きとして美しいこの現実の確実性の意味するもの、その奇蹟の果実(知恵の実)の甘美さ自体がまったく見えなかったのだ。

 陰鬱にして不明瞭なパスカル、哀れな。
 お前には分かっていない。
 原罪をキリストに頼らず、自らを供物にして贖ったデカルト、この神に愛でられた人こそが、エデンの園に帰ることを許されたのだということが。
 お前には何も見えていない。

 デカルトを包んでいるその叡智の光だけが、彼の周りに、真の意味での神の国を顕現させていたのだということを。