アリストテレスは現実性を可能性の実現と考えた最初の哲学者であると普通言われている。
 すなわちデュナミスはエネルゲイアに先行している。
 我々の言い方で言うなら、潜在的可能性(能力)であるデュナミスが現実の次元に出来したものがエネルゲイアであり、出来は可能性の実現だということになる。

 しかし、そのように単純に考えることは現実性を可能性に還元してしまうことであるに過ぎない。
 言葉は違うが、それではアリストテレスが必死になって批判したプラトンのイデア論と同じになってしまう。

 プラトンは観念的なイデアに地上の現実世界を還元してしまい、その上にイデアこそが真実在であって、アリストテレスがエネルゲイアと呼んだ現実世界の方を朧ろな現象の影の世界に過ぎないものだと断定している。
 しかしイデアは可想界であって、そのようなものを現実世界に置き換えて真実在と看做すことはアリストテレスにとって耐え難いことであった。

 目の前にあるものを実在しない虚妄の影と考えてしまうとしたら、そもそも《ある》という言葉は一体何を意味するというのか。

 プラトンとソクラテスは哲学を「死の練習」であると言い、肉体(ソーマ)は墓場(セーマ)であると言って、現に人が生きている美しい現実世界を蔑視し、それは本当には《ない》のだという哲学の名を騙る恐怖の宗教を蔓延させていた。

 アリストテレスにはそのような感性はない。
 彼は現にあるがままの世界を美しいもの、生き生きと生きるに値する麗しい場処、神がいるとすれば、それはまぎれもなくこの現世のきらめきのただ中に見いだされねばならないのだと感じていた。

 彼は自然を愛する人であり、アテナイという退廃した都市文化に毒されて怪奇な厭世主義に陥ったプラトンのアカデメイアのたれ流す似非学問を拒絶し、異なる学校リュケイオンを開いて、現実世界に定位した真の学問をたった一人で一から作り出そうと格闘した真の意味での最初の哲学者である。

 哲学がソクラテスやプラトンから始まるなどという考えは私には耐え難いものである。
 彼らが作り出したのは人間の人格を侮蔑し、子供達から歌声を奪うアカデメイア(学校)という残酷な制度であり、知を愛するなどと称して、その実全く真の愛というものを知らない、驕慢で偽善的で口ばかり達者な、自称「哲学者」或いは「学者」「知識人」「文化人」と称する似非インテリの詐欺師ばかりである。

 西欧哲学の歴史は長いが、真の哲学者、知を愛する以前に愛をこそ深く知っている暖かい人の心を強く宿した哲学者というのは本当に希有である。
 アリストテレス、デカルト、スピノザ、ルソー、カント、ノヴァーリス、マルクス、ニーチェ、そしてジル・ドゥルーズ。
 彼らに共通するのは在野に市井に定位して、〈愛〉を破壊するために〈知〉という名前の邪悪な権力を振り回す「学問」という名の権威主義に牙を剥き、哲学というのは決して弱き者の魂を玩具にする悪魔の遊戯ではないのだということを示そうとしたその決死の戦いの姿勢である。

 真の哲学者とは何か。
 それは動物である。理性的動物である。
 自らを理性的動物であると看做し、文化の檻に入れられることを嫌い、獣のように野に下って、欺瞞の神に、みにくい権威の幻影に、獣の声で命の限り誠実に吠え続けようと決意した人間のことである。

 哲学者というのは第一に怒れる者である。
 怒りの感情を引き受け、烈火の如く、自分の同胞を欺き虐げ冷笑しようとする〈真理〉という名の冷酷な悪魔に対して、最高善である〈幸福〉を高く掲げ、涙を流しながら「嘘をつくな! 人の心を歪めるな!」と罵り続ける戦士だけが哲学者なのだ。

 哲学者が要求するのは美しい人生である。
 子供たちの可憐な歌声が戻ってくることである。
 人間の人格や生命が決して侮蔑されない地上の楽園である。

 哲学者が憎むものは人の心を蝕む残酷なニヒリズムであり、哲学の仮面を被った邪悪な知のファシズムである。
 愛し合う恋人の仲を引き裂くもの、子供達の瞳に暗闇と失望の闇をうがつもの、愚かしい幻影のために美しい人生が無慚な力で砕かれてゆく悲劇に与するもの、それが哲学者の敵である。

 人の心の故に、哲学者はそれを決して許せないし、憎しみの故に哲学者は思考するのだ。

 間違ってはいけない。哲学者は真理の探究者などではない。
 哲学者は真理の反対者であり、理性的・政治的動物の本能によって〈幸福〉を追い求める人間なのである。