〈風流〉の観念は極めて〈活き〉の悪い窒息寸前の日本人の折鶴的美意識を『「いき」の構造』に綴った九鬼周造よってやはり実にその風速・風力を削減された微風的なものに弱められて考察されている(「風流に関する一考察」)。

 風流の本質は爆風的な疾風怒涛の台風的風流心に求めるべきであり、それは天地創造的で黙示録的な怒りの神の過激な過越のプネウマのなかに、或いは暴風神シヴァ=ルドラのコズミックダンスやそのサイクロンの絶叫にみなければ嘘である。
 どんな幽かな微風であってもその本質は破壊的で切断的な残酷の爆風でしかありえない。

 九鬼はこのことを見ていない。それは彼の所謂「いき」の構造が、それよりも遥かにみにくくとらえがたい「甘え=生き=恥」の構造に呪縛された「虫の息」の構造になってしまっているということとパラレルである。

 「いき」の構造は「美意識」の構造でしかないが、私が「甘え=生き=恥」の構造といっているのは単に反省的な「美意識」の美学(審美学・日本人論・文化論)によっては、あまりにそれがみにくすぎて残酷なために把握不可能な、政治権力的な野蛮の構造であり、真の意味で形而上学的でまた美学的=様相論的=病態論的(pathologic)なものである。

 私は普通の意味で「美しさ」や「みにくさ」を言っていない。これは今日的な意味での美学的概念ではない。
 私はそれとは異なる形而上的な美学において逆に今日的な美学を全体として美を見失ったみにくいもの(これは醜さというより見にくさという方が近い「意識の盲目性(blindness)」の概念である)として批判する。

 それはむしろ美を見失ったみにくい教えの宗教(醜教)に内属するもので、己れの「美意識」そのものが真の「心の美しさ」を忘却し隠蔽するものでしかないことに無自覚である。

 九鬼の美学もこれにあたる。
 そのことが九鬼を余りにも惜しい悔しい思想家に留めてしまっている。

 私は「いき」の構造が本当に生き生きと美しく生きられるような「美しい学としての哲学」を提唱したい。
 私が第一哲学として考える「美学」は「哲学自体が美しいものであるような哲学」を意味する。

 九鬼の『「いき」の構造』は殺されている。それは自殺の構造になっている。
 私はこれを『「いきいき」の構造』『「いきかえり」の構造』に革命的に作り替える必要を痛切に感じている。

 「ライプニッツのモナドロジーをノマドロジーに改造する」とはジル・ドゥルーズの言い草であった。
 私はむしろ死せる偶然性の様相形而上学者・九鬼周造の『「いき」の構造』を『「命」の創造』に改造する夏殷の徴のさかしまの神業を使う神風の思想家でありたいと希っている。

 九鬼はたしかに一個の端倪すべからざる思想の鬼である。しかし、その後ろの正面には六六六の神沢が立つのだ(笑)。

 さて、花薔薇〔カバラ〕的にいうと、〈周〉を〈造〉ったのは文王の易である。
 しかし私は夏の連山・殷の帰蔵をもってこの小さな文王のトカゲの易から、天龍・地龍をつくりだすゴーレムの天=文学的創造を敢えてなしたいと思っている。
 大いなる連山すなわち出口王仁三郎の艮(為山)の金神の殳〔たてぼこ〕によって、逆さ吊りの緋色の女・大殷婦バビロンの大きな腹(殷の解字参照)の胎蔵界(ガルバコシャダート)を帝王切開し、この現実世界にブラフマンなる黄金胎児(ヒラニヤガルバ)を誕生させる「風流としての黙示録」を行わねばならない。

 そのためには、「風」を姓とし「夏」に先立つ「春」の国に、包丁(刃)の使い方と河図の龍馬を出だして初めて八卦を画した伏羲と、人類を創造し壊れた天地を修理した双子の女神の女媧の双子宮時代の太極に戻らねばならぬ。

 伏羲と女媧は蛇身人頭・二身一体の双子の陰陽にして夫妻でありまさに太極の形にその分かちがたい下半身をからめ合うヘルメスの双頭の蛇杖カドゥケウスに他ならない。

 それはそれ自体がエデンの園の中央にある生命の木であり、その切断の魔法の風の杖から神農なる偉大な牛頭大王(鬼の元型となる有角神)は生まれるのである。

 この魔法の風、風伯の風こそが真の意味での「風流」の風なのである。

 九鬼はこの魔法の風、奇蹟を起こす不可能性の金の戦ぎの風、うるわしきワルキューレの騎行の風、光の暴風を、この男女一身同体の春の嵐を、テンペストを見ていない。
 彼の風流論はきわめてうらぶれたものであるに過ぎないのだ。

 しかしそれにも拘わらず、風流の第一の本質を「離俗」すなわち「社会的日常性における世俗と断つことから出発せねばならぬ」と睨む九鬼の風流論は重要である。
 彼は書いている。

風流の本質構造には「風の流れ」といったところがある。水の流れには流れる床の束縛があるが、風の流れには何らの束縛がない。世俗と断ち因習を脱し名利を離れて虚空を吹きまくるという気魄が風流の根柢になくてはならぬ。社会的日常性の形を取っている世俗的価値の破壊または逆転ということが風流の第一歩である。
   (九鬼周造『「いき」の構造 他二編』岩波文庫 p.102)



 九鬼は風流の構造を構成する本質契機としてこの第一の「離俗」の他に、第二「耽美(人生美)」第三「自然美」を挙げ、後の二者を「芸術面における積極性」、最初の離俗した天衣無縫の自在人の「風の流れ」を「道徳面における消極性」と呼んでいる。
 そして後者を不可欠条件として先行するものとしている。

 だが、残念ながら、良いのはそこまでだ。

 結局は「風流とは自然美を基調とする耽美的体験を「風」と「流」の社会形態との関聯において積極的に生きる人間実存にほかならぬもの」とし、更に「風の流れ」の高邁な破壊性はあくまでもっぱら「内面的破壊性」にすぎぬものと消極的にしか受け取らず、「社会的勤労組織との外面的形式的断絶を意味するものではない。かえって社会的勤労組織そのものの中に自然的自在人を実現することこそ現代的には真の風流であるといえよう」という『「いき」の構造』にも見られるような世に媚びた媚態を呈してしまっている意気地の無い単に甘ったれたところには呆れ果てる他にない。

 私が気に入らないのは「風の流れ」の馴致不可能な抗いがたい強烈なさがをこのように消極的なものに矮小化し還元して、スタティックな美意識の小さな形而上学的八面体に風の粒子を凍らせてしまう九鬼の余りにも惜しい貧弱な美意識である。

 この風流論の中心をなす〈厳-笑〉〈太-細〉〈華-寂〉の三つの対立軸をOのゼロ点に交差させた「風流正八面体」は逆に風の本質を殺している風流ならざるものである。

 この風流正八面体は、「いき」の構造と同様に美意識(虚偽意識)の八面体であるに過ぎない。

 これは風の抜殻でありその屍骸である。
 たとえそれがどんなに小綺麗に整って見えようとも。