「別人」は恐ろしい。
 それは姿もなく擦めるだけのものなのに、世界を無よりも恐ろしい恐怖の異和の一色に塗り替えてしまう魔性の風だ。

 それは自己を不可能にし、他者を不可能にする。
 いや、自己の自己性を不可能にし、他者の他者性を不可能にするといわなければならない。

 何も存在しなくなるわけではない。彼女は存在しているし、わたしも存在している。
 何も無化されているのではないのだ。
 だが「存在する」ということはそっくりそのままなのに、すべてが丸ごと不可能になっている。
 在るがままにありながら、その「在る」ことの一切がありえなくなる。

 ありえない。

 存在するにも拘わらず、それが全くありえないということが突然に起こるのだ。
 それは無化なのではない、不可能化である。

 この差異は重要である。
 存在は全く無傷にに完全に保存されているのだから、無化としての無や、不在としての無が襲って来ているのではない。

 確かにその感触は無や不在に似ていなくはないし、それをついうっかり思い起こさせなくはない。
 無や不在に非常に近似しまた類似しているので、迂闊にそれらの観念を用いて比喩的にこの最も空虚な出来事を描写したり分析したり叙述したりすることがよく行われてきた。
 しかし、それは間違っているし、無用で余計な誤解によってただでさえ紛糾している出来事を必要以上に難解で曖昧な神秘の文芸やゴリ押しの哲学理論によって無闇に混濁させてきただけだ。
 ところが、実際の出来事は言語と理屈の文学的・哲学的紛糾をよそに、恐ろしく透明で明晰判明な、そしてどんな文飾をもっても美飾りようのない全く無味乾燥で無感動な、貧相な恐怖による単調極まりない悲劇の光景でしかありえない。
 そこには無の観念が大騒ぎする余地などまるでない。
 無にはまるで出る幕がないというのが真相なのだ。
 角を出した鬼が出る幕があるのだとしても。

  *  *  *

 無はない。更に言えば、このことに限って文章の下手糞なサルトルがやたらに騒々しく書きなぐって宣伝したところの吐き気を催す存在の渾沌もありえない。
 それはカオスではない。
 また、サルトルに負けず劣らず文章の下手糞なバタイユがやたらに麗々しく言い立てたような非知の聖夜の暗黒の陶酔気分の神秘の恍惚もありえない。
 わたしに言わせれば、サルトルもバタイユも単なる騒々しいはた迷惑な酔払いでしかない。
 悪酔いしようとほろ酔い気分だろうと飲兵衛同士のどっちが酒豪かを巡ってのフランス産ワインの飲み比べ競争の酒のつまみにされるべき話ではない。

 そのような連中を酒の肴にして笑うもっと下品な噂好きのサロン的インテリどもの野次馬根性にもわたしはつきあいたくはない。
 そのような酒気を帯びたおフランスな連中をその安酒もろともつまみ出し、インテリどもの酒臭いエスプリを跡形もなく換気し、来るとゲー出るとか吐いでっがーとかいう人名なんだかインテリどもの寝ゲロなんだかよく分からない未消化の知の汚物をモップでよく掃除してしまうことが必要である。

 こういった己れの才能だの能力だの知力だのポテンツに酔い痴れて酔い潰れておかしなカラオケ好きの天狗になってしまったオヤジ臭い醜い連中の互いの性器ないし性起の勃起能力を競い合ったり去勢しあったりするファロゴサントリズムが一番いけない疑似問題であり、風紀を損ねるセクハラにして思想上の騒音公害なのである。

 ファロゴサントリズム(男根ロゴス中心主義)という程エロ・グロ・ナンセンスな下品な用語はない。それは全くオヤジ的で不謹慎なダミ声の猥談でありオヤジ同士の内輪受けの域を出ない。この用語の発明者が誰だか知らないが(本当は知っているが)そんなシャックリ出たような品のないダサいジャルゴンを創って喜ぶ言語ゲームは、センスが悪すぎて、笑劇としてもジョークとしてもナンセンスとしても言葉遊びとしても最低の部類に入る失敗したヒューモアでしかない。ウィットというものが全く感じられない。

 下ネタしか語り得ぬものは沈黙しなければならない。
 言葉遊びというもの程人品骨柄が問われてしまう分野はないのだ。

 不真面目な猥談は単に子供に悪影響を与えるからといって母親達が鼻をつまむからいけないのではない。そうではなく、子供に全くウケず単に白けさせるだけだからいけないのである。
 子供はエレガントな生物であって、最も厳しい批評家でもあるのだ。

 何でもオトナのすることを真似するのが子供であるというのは間違っている。
 子供は真似をするときに何を真似するかを高い審美眼で選ぶ。
 子供は『不思議の国のアリス』のような優美で洗練された屁理屈語りと言葉遊びによって大人の尤もらしげだが中身のない論理、やたらに横柄で俺様には理由がある根拠があると威圧したがる教育根性=権力意識丸出しのヘンテコなロゴスを、無闇な最新用語や現代思想の基礎知識の丸暗記とか、構造主義だのデコンストラクションだのの最新の方法論やら知の技法やらの行儀作法の調教訓練とかに全く頼らずにぶち壊しにする爽快な詭弁術と突飛で無邪気な質問術を心得ているものだ。

 そして子供はオトナの嘘といやらしさがとても嫌いだ。
 論理・丸暗記・勿体振った行儀作法、これは子供の健全な批判的純粋理性の最も嫌悪するところのものである。

 そんなものは全部オトナたちのいやらしいこと、つまり猥談である。
 猥談が分かるようになってしまったら子供はもうおしまいだ。
 それはバカで穢いオトナの仲間入りをするということである。