『キリスト教東方の神秘思想』V.ロースキイ 宮本久雄 訳(頸草書房1986)

◆カルケドン信条

 《エフェソス公会議の定式(特にキリストが「人間本性においてわれわれと同一本質」という表現)をアンティオキア学派の線に立つ誤りと考え、キュリロスの超越神観のみを極限までおしすすめたのが、コンスタンティノプールの修道士エウテュケス(三七八頃-四五四)であった。彼は海のようなキリストの神性に水滴のようなキリストの人間性が呑まれ消滅したと主張した。この教説は後にエジプト、シリア、アルメニアなどの共同体に影響を及ぼすことになるが、四五一年のカルケドンの公会議で斥けられる。この公会議の定式によればキリストは「二つの本性(神性と人間性)をもち、その相互の間には、混合なく、変化なく、分離もない。二つの本性の結合によってそれらの相違がなくなるわけではなく、かえって各々の本性の特質が保たれ、唯一のプロソーポンと唯一のヒュポスタシスのうちに統合されるのである」。
 ここでプロソーポン(ラテン語ペルソナ)もヒュポスタシスもほぼ同義的で、現実に独立して実在する一つの知的意志的主体を表現している。そしてこの定式は自存的主体[ヒュポスタシス]キリストにおける神性と人間性との関係を肯定的概念的に把握できるかのような錯覚を用心深く避けて、否定的に表現することによってキリストの神秘を一層際立たせてもいる。すなわち「混合なく」とはキリストにおいて人間性が神性に吸収されないことを、「変化なく」はキリストの人間性が罪障にみちた不完全なものでないことを、「分割なく」は二つの本性がペルソナ的統一を欠いていないことを、「分離なく」は復活のキリストが人間性(の地平)を棄て去ってわれわれと無縁にあるのではないことを表現している。》(宮本久雄『ギリシャ教父の思索』前掲書25頁)

《教父の伝統に従ってわたし達は一致して次のように宣言する。わたし達の主イエスス・キリストは唯一の子であり、神性においても人間性においても完全である。真の神であり同時に理性的生魂と身体とから成る真の人である。この方は神性によって父と同一本質であり、人間性によってわたし達と同一本質であり、罪を除いてすべての点でわたし達に似ている。神性において世々の前に父から生まれ、その人間性において終わりの時代、わたし達の救いのために神の母、乙女マリアから生まれた。この唯一のキリスト、子である主、独り子は、二つの本性のうちで混合もなく、変化もなく、分割もなく、分離もなく存在する。この結合によって二つの本性の相異が取り去られることもなく、むしろ各本性の特質は保たれてあり、唯一つのペルソナまたはヒュポスタシスのうちに結合されている。このヒュポスタシスは唯一の同じ独り子、神の言[ロゴス]、主イエスス・キリストであって、二つのペルソナに分離されたり、分割されることはない。》

◆アリストテレスカテゴリー論第5章でのウーシアの定義
 《「実体[ウーシア]、それは最も厳しい意味で、第一に、なによりもましてそう呼ばれる場合の実体は、あるなにかがあらかじめ措定されていて、それについて述べられるものでもなく、またあるなにかが措定されていて、それのうちに有るのでもないものであって、例えば当のある人とか、当のある馬とかのごときである。そして第二実体と言われるのは、第一に実体と言われるものがそれのうちに属するところの種とそれらの種と類とである。例えば当のある人は、種としての人間のうちに属し、そして動物がその種の類である。だからそれらのもの、例えば人間や動物は実体としては第二と言われるのである」言いかえれば、第一実体とは個別的自存存在・自存的個別者を意味し、第二実体とは実在論的にいうと「本質」を意味する。》83頁

◆ヒュポスタシスの意味。もともと一般流通言語で現実に自存し基存するもの=基存存在を意味する。動詞《ヒュピステーミー》(-の基に基礎として存在する)に由来。

◆ダマスコのヨハネ『弁証論』におけるウーシア/ヒュポスタシスの定義
 ◇ウーシア「ウーシアはそれ自体で存在し、その構成成立のために他の何ものをも必要としないものです。あるいはまたウーシアはそれ自体で基存自存[ヒュピステーミー]し、他のもののなかに存在をもたないすべてのもののことです。だからウーシアとは結局、他のもののために存在せず、その構成成立のために他の何ものをも必要とせず、それ自体において在り、しかも偶然的存在がその中で存在するところのものなのです」(三九章)
 ◇ヒュポスタシス「ヒュポスタシスという言葉は二つの意味をもっています。あるときにはそれは単に在るものを意味します。この意味によればウーシアはヒュポスタシスと同じものです。この理由である教父立ちは『自然本性あるいはヒュポスタシス』と言いました。あるときにはヒュポスタシスは、それ自身で、その自存性において存在するものを意味します。この意味によれば、ヒュポスタシスは、数的にほかのすべてのものと異なる個物(例えばペトロ、パウロ、当のある馬)を指します」(四二章) ◇(以下ロースキイ)以上のように、ウーシアとヒュポスタシスという二つの言葉は、多かれ少なかれ同義的である。すなわちウーシアは個別的実体を意味するが、同時に複数の個物に共通の本質を意味する。ヒュポスタシスは一般的存在を指すが、同時に個物的実体に適用されるからである。キュロスのテオドレトス[アンティオキアの神秘思想学派 三九四-四六六]は次のように証明している。「一般的弁証論によればウーシアとヒュポスタシスとの間に区別はありません。なぜなら、ウーシアは在るところのものを、ヒュポスタシスは基存自存するものを意味しているからです。しかし教父達の所説によるとウーシアとヒュポスタシスとの間には、共通なものと個別的なものとの間にあるのと同じ区別があります。実際、教父達は、その天才によってこの二つの言葉を用い、神のうちに共通なもの=ウーシア(本質という意味での実体)と個別的なもの=ヒュポスタシス(またはラテン語でペルソナ)との区別をした。しかしこの最後のペルソナ(ギリシャ語でプロソーポン)という言葉は西方ではよく受容されたが、最初東方では受容されなかった。なぜならプロソーポンという言葉は近代的ペルソナ(例えば人間的パーソナリティ)という意味をもつどころか、当初はむしろ個人の外面的姿(顔、形、面)または劇場の俳優の役割を意味していたからである。バシレイオス[三三七-三七九 カッパドキアの三教父の一人 エウノミオスの非相似説(アノモイオス)と戦った]は、ペルソナが西方で三位一体論に適用された事実のうちに西方的思考の固有性を見いだしている。この思考の固有性は既に一度、父と子と霊を唯一の実体の三様態としたサベリオス主義において表現されていた。ところが今度は西方の人々が実体(substantia)と翻訳したヒュポスタシスの用語のうちに、三神論さらにアレイオス主義にみちびく表現の危険性を認めたのである」(前掲書84頁)

◆ラテン系三位一体論は、一つの本質(エッセンティア)から出発して三つのペルソナに到達する。これに対してギリシャ系三位一体論は、具体的な三つのヒュポスタシスから出発して、その3つの中に共通の本性を見いだすという傾向がある。
◇トマス・アクィナス「ペルソナは関係を意味する」(西方)
◇ナジアンゾスのグレゴリウス「三つの聖なるものは一つの住居である神性に集い集まっている」
◆ナジアンゾスのグレゴリオス『説教講話』
 「不出生(アゲンネートス)、出生(ゲンネートス)、発出はそれぞれ父と子と霊を性格づけます。この性格づけによって神性という尊い唯一の本性のうちに三つのヒュポスタシスが区別され保たれます。何故なら唯一の父しか存在しないので、子は父ではありませんが、しかし子は父であるところのものなのです。また唯一の子しか存在しないので、霊は神から発出するといわれても子ではありませんが、しかし霊は子であるところのものなのです。三は神性において一であり、一はペルソナにおいて三なのです。このようにわたしたちは、サベリオスの主張する唯一神論と今流行のアレイオス主義の三神論を避ける事ができるのです」
 出生はラテン語でgeneratio、発出はprocesio。この起源の仕方の異なる様式こそが子と霊の2ペルソナを区別する。

◆エウノミオスの非相似説(アノモイオス)
 エウノミオスはアレイオスの後を受けて登場する異端者。カッパドキアの3教父は彼と戦い、この3人の力でようやく三位一体論は定式化される。
 《エウノミオスは「言挙げの名人」とうたわれたようにアリストテレスの俗流解説者(弁証・論理にすぐれた人)とされていた。彼によれ父が不出生を、子が出生を根拠にしてペルソナ的に区別される限り、両者は全く非相似であるといわざるをえない。だから出生の子とは創造された被造物にすぎないとされる。また対象に関する名前(名辞)のうち、慣用的な名は人がつける任意の記号にすぎず、他方、神の名は神によってのみ創られたのだから彼の本質を表示すると考えられた。とりわけ「不出生」という名は積極的に神の本質・自己充足性を表す神に固有の名であるとされた。このようにして人間理性は神を把握できるので、キリストの受肉(根拠と人間を結ぶ子の真理性)は余計なものとされてくる》(宮本久雄氏。前掲書16頁)
 反エウノミオス論を展開したのはバシレイデスである(大バシレイデスという人物が別にいるので注意すること)。《彼によれば名は不在と現存を表す。神に用いられる不可視、不死、不出生などの否定的な名は不在を意味し、善・義・真などの肯定的な名はこれらの名が示す性格が神的本性において卓越して現存することを意味する。ところが「不出生」とはどんな原理にも由来しないという否定性を示すに過ぎない。従ってここから次の二点が帰結する。第一に「不出生」という名によって本来的に神把握はできない。だから第二に「不出生」は「出生」という子の名と本質的に対立しないので、子が「出生」によって父に従属したりあるいは父の被造物であるという主張に何の根拠もない。》
 こうしてバシレイデスは父と子の同一本質(ホモウーシオス)を強調し、アレイオスの等質=類似(ホモイオーシス)論とエウノミオスの非相似(アノモイオス)論を切って捨てる。しかし、このとき、聖霊というペルソナを被造物とする連中(聖霊に対して戦う人々という意味で、プネウマトマコイと呼ばれる)が出現する。
 バシレイオスはこれに対して、父と子は聖霊と共に称え敬われる(ホモティモス)と言った。ここに三位一体論の端緒がある。
 第二回目の公会議は371年コンスタンティノプールで開催される。テオドシウス大帝は、既に出ていた、キリスト・イエスは「父の本性より神の独り子として生まれ、創造されずに生まれ、父と同一本質(ホモウーシオス)である」というニケーア信経
(その他アタナシオスは「神が人間になったのは、人間が神になるためである」という人間神化(テオシース)の思想を表明している。キリスト教における《真理》は、神によって絶対的な根拠を与えられると共に、人によって知られるもの開かれたものでなければならない。これ故にイエスにおいてテオシースが保証されることこそが真理の重大な条件なのだ。そこでは神=人の等式の証明としてイエスは《真理》そのものの条件になっている)を確認し定式化する。カッパドキアの3教父の思索によって三位一体論はほぼこのとき確定した。更にこのとき、聖霊について、新しく出て来た異端プネウマトマコイを斥け、聖霊は創造されたのではなく、《父から出て、父と子と共に礼拝され、尊ばれる》という言葉が付け加えられる。
 単性論の先駆である異端アポリナリスはこの直後あたりに出てくる。《神であるロゴスの1つの本性だけが肉となった》。これは位格ではなく性についての不気味な問いである。

◆西方教会(カトリック)は、エト・フィリオクェつまり《子からも》という一句によって、父だけではなく子からも聖霊は発出されるという定式によって東方教会の反発を買った。ad utroque(両者)から発するというこの主張の基は、ラテン神学が一なる本質から三つのペルソナへと思考を進める結果、父なる源泉を忘却してしまう傾向に起因する。これはサベリオスやアレイオスを復活させてしまう可能性をもつ。

◆次のようなギリシャ教父の金言がある。《父は唯一であるから神は唯一である》。

◆カトリックの定式によると、霊は子よりも低位に従属させられてしまう。出生と発出という違う仕方によって唯一の父を源泉とするなら、霊と子は共に同格の双子である。

著者: V. ロースキィ, 宮本 久雄
タイトル: キリスト教東方の神秘思想