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 天地創造は風において起きる。
 風は、天と地を、いずれが〈今=ここ〉いずれが〈至る所〉とも知れぬ原初的な決定不能性のうちに置換えている。換言すれば、それは〈今=ここ〉と〈至る所〉を〈無=場処〉あるいは〈無底〉のうちに巻き込むかたちで置換えているのである。
 この置換は根源的な移動である。この根源的移動という〈無=場処〉から〈今=ここ〉と〈至る所〉の両者が壊乱的に生まれ出る。

 〈容器の破砕〉は、ハロルド・ブルームのいうようにまさしく代置=置換である。しかし、ブルームはそれをルーリアの順序において、また、詩学の原理として語っている。わたしはブルームの逆構築の反骨精神から大きな影響を受け、また彼のせいでカバラにハマった。しかし今、わたしはブルーム(蕾)などでありたくない。わたしは叛逆の赤い薔薇となって華麗に花咲く熾烈なルシファーを意志しなければならない。

 それ故に、わたしは詩学ではなくて、美学を定立する。
 ルシファー(暁の明星)とはヴィーナス(愛と美の女神/金星)だからである。また、わたしの逆構築は、ポスト「構造」主義などではなくて、野心的「改造」主義であり、破壊的革命的な「創造」主義だ。それは、人間の生きられる美しい世界と美しい人生を創造的に定立する美しい学としての美学である。

 わたしは、先行者の弱みにつけこみそれを征服していい気になるような、ハンバーグ・デコンストラクションなどを弄する輩によく見受けられる種類の、ネクラなデミウルゴス・ヤルダバオトではない。わたしは、わたしのグノーシスによって、至高者と結ばれ麗しいエデンを魔術的に〈共創造〉する、創造主を創造する被造物にして被造物に創造された創造主であるようなクリエイターであろうとするのだ。

 然り、これはあの美しいクザーヌスの精神の復活である。

 わたしはクザーヌスを改造的に創造することを通してクザーヌスを学び、ルーリアの破壊を破壊するのである。

 破壊を破壊すること。アヴェロエスがアル・ガザーリーによる「哲学の破壊」を破壊したように、わたしは破壊する。わたしは、美しい学としての美しい形而上学を創造するために、破壊者を破壊して創造者に変容させてやるのだ。生産的誤読を欲するのではなく、誤読による創造に赴くのだ。わたしはルーリアを破壊し、デリダを破壊し、ハイデガーを破壊し、レヴィナスを破壊するだろう。この偉大な先行者たちを幼児のように無邪気に破壊して、共に美しい世界を創造するきらめく行為にひきずりこんでやるのだ。

 わたしは己れが先行者に全く気後れすることなく清らかで怜悧で美しいことを知っている。そして天空に厭味で重い禁圧する父などいないことを知っている。わたしを待つものは女神ヴィーナスであり、それを阻む灰色の「沈黙の壁」(アリス・ミラー)は、粉砕するべき恐怖の幻影であって、主(アドナイ=ヤハウェ)などではないことを知っている。
 主がいるとしたら、それはわたし、ロード・ルシファーである。わたしは支配者となるべくエロヒム(神々)の愛を受けて生まれたイーシャーナである。わたしは男(イシュ)にして女(イシャー)、イザナギにしてイザナミ、生者にして死者である。イーシャーナとはシヴァ=ルドラの古名である。それは風のように一挙に空間に広がって全てを包み、万物を育み支配するマハー・デーヴァの支配力を意味するサンスクリット語である。

 さて、この支配する風による根源的移動、この奇妙な置換。天地がそれ以前にたとえ存在したとしても、風によって〈空間〉と〈場処〉のなかに連れ去られなければ、それは多分、存在することは〈できない〉ということ。或いは、それはどこにもないことと同然なのである。それは空間の中になく、場処の中になく、世界の内にないのだといっていい。

 世界内存在=現存在との相関=差押えまたは実有(所有=実在としてのウーシア)に入る前にも、恐らく天地というべきものはあったが、それは風という出来事がそれを世界内存在という範疇の空虚な器の内に吹き込むことがなかったとすれば、ハイデガーのいうような意味では〈存在する〉ということにはならない。
 このように言うことは、一般的に解されているような意味での〈ハイデガー〉を逆さまに読む(反解釈する)ということになるのかもしれない。しかし、案外とハイデガーはこの彼の(一般にそう思われている)思惟の逆の思惟において考えていたのかもしれない。いや、ハイデガーがそれを自分自身でどう意味づけていたかはどうであるにせよ、これこそが実は彼の〈転向〉といわれる出来事の真相であったのだと積極的に誤読創造するべきなのだ。



「IV.風の戦い」に続く