日本的現実性には
可能性の蜘蛛の巣が薄暗くかかっている。

可能性の蜘蛛の巣は電線であり、蜘蛛の神経である。
それは振動し易い糸電話で、
キャッチした新しい単語や話題は聞き逃さないが、
実際には蜘蛛の巣のようにスカスカである。

他者の頭上に
蜘蛛の巣のネットワークを張り巡らす人間は
既にナルシシズムの寂しい病人である。

他者との絆を蜘蛛の巣を伝わってやってくる話に求める人は、
その絆の関係性(他者と結ばれてあること)を大切にする余りに、
他者をその蜘蛛の糸で絞め殺したり、
或いはその蜘蛛の巣から零れ落ちるがままに見損ない続けている。

蜘蛛にとって他者の他者性は端的に消えうせている。

彼は蜘蛛の巣をより広くより綿密に張り巡らして
全てを覆うことにしか興味がない。
他者の他者性の代わりに大切になるのは
〈知人〉という価値である。

他者との愛を育むことに蜘蛛的人間は無関心で、
〈知己〉を獲ることだけに夢中になる。

しかしそれは自ら人間の生き方を放棄することである。

世界に心の配線を張り巡らす蜘蛛は
〈心配〉(不安)や〈気配り〉(気配)にあたふた
自他端(じたばた:これは私の創意による黙示録的宛字である)する余りに、
その蜘蛛の巣の上でキリキリ舞いしている
不幸な世界の支配者になるだけである。

しかもその巣は非常に破れ易い。
終始一貫して蜘蛛は巣を修繕し続けなければいけなくなる。

その巣を取り繕うこと(単なる解釈学)に夢中になる余りに
蜘蛛は現実の宇宙の時間を止めてしまう。

それは魂の死である。

実際には大宇宙もまた織物である。

けれどもその織物は
蜘蛛の巣のようにスカスカの
永遠の可能性の襤褸布ではない。

蜘蛛の巣というのは
いわば破れ目だけを綴れ合わせて作られているようなもので、
そうすることによって
現実の宇宙からやってくる
破壊的な隕石や流星雨から身を守っている。
換言すればそれは傷つくことが怖いからである。

しかし大宇宙という織物はそうではない。
それは可能性の織物ではなく現実の織物であり、
関係性によって織られているのではなく、
出来事によって織られている。
それは突き破られることがありえない。

大宇宙という織物は美しい星空のマントであり、
天馬の翼である。

人は誰しもその星空のマントを羽織るなら
その瞬間に全宇宙に君臨する神的な大王となる。

そのとき止まった時の輪(常盤)は回り出す。
そうなるとその車輪に巣食っていた全ての蜘蛛の巣は
もう張り巡らすことすら不可能になる。

蜘蛛はそのとき潰れて死ぬ。

そして大宇宙の不夜城が忽然として蘇り、
人間の手前に王道が開けるのである。

  *  *  *

大宇宙は存在しない。
大宇宙は現実であるだけだ。
だから、それは美しい。

美しいとは、
内に奇しきものが宿っているという
事物の様態を説き明かしている言葉である。

美とは内奇性のことである。

奇しきものとは現実である。
出来事は出来する。
それは奇なるものの出現にしてその到来である。

奇なるものは解字すれば大可性である。

大可性は可能性ではない。
可能性の限界を大なるものが突き破る破壊的な出来事を表現している。

小さな羊の仔羊が突然に大きな羊になる。
美とは羊の巨大化である。

大羊は大洋に通ずる。
それは海のことであり、
海とは〈生み〉つまり誕生という出来事を表現している。

生とは大地の上に牛の乗る象形である。
また、牛に一を加えた象形である。

ところで、私はここで漢字の字源について
言語考古学的な話をしているのではない。
私は漢字を新たに創造しようとしているのである。

牛や羊という文字が、
動物のウシやヒツジとは違う観念の生命を帯び、
形而上学的な出来事を表す
天=文学的シンボルに錬金術的に変換するとき、
それは単に形而下的な人文科学を
端的に超越する激烈で超新星爆発的な意味をもつようになる。

天=文学とは占星学のことである。
しかしこの星は天体の星を意味するものではない。

星は日を生ずるもののことである。
日の原字は○の中央に小さな黒丸を置く。
これは太陽の天文記号として古くから用いられている。
しかし、このかたちが示すのはむしろ太陽ではなく、
まどかに見開いた古代シュメール人の瞳の目印である。

星はその美しいきらめきによって人のまなこをひきつけるものである。
星の上に驚異の目は生じて止まる。
それゆえに、星は優れて目印である。
それは生まれたばかりの日であり、
それ自体において誕生日(生まれた日)を意味する象形文字である。

星は出来事であり、また出来事を記すものである。
出来事は目撃される。目撃は経験ではない。
目撃は端的に現実が目を撃つことだ。

そのとき目から火花の星が出る。
星は真の日である目から生まれ、また日を生ずる。
それはきらめきである。

星はマークであり、それは思考を表現するものである。
思考は星によって語る。
星は美しい学としての哲学の始まりである。

生まれるものは美という大きな羊である。
羊は牛に次ぐもの、牛に一を足したものである。
それは牡羊座を表す。

牡羊座は牡牛座に続くものである。
羊の原字は牡羊座の符号に等号=を重ねたものである。
牡羊座の符号はギリシア文字のイプシロンΥに形を等しくする。
イプシロンはラテン字母(elementa)に入ってYの形で表現された。
従って、羊とは日本円の貨幣単位を表現する符号¥で書き表されてもよい。

牡羊座の記号は海中から噴出する鯨の潮吹の象形である。
海中で最も大きな動物は鯨である。

鯨とはリヴァイアサンであり、
他方、地上で最も大きな動物は象であり、
象とはベヒーモスを表す。象は形である。
それは目に見えるものを意味する。
他方、鯨は海中に潜伏している。
それは水の中から決して出て来ない。

鯨はその意味では不出来である。
水は訓ずれば〈見ず〉である。
水の意味するのは不可視性である。

鯨は不可視性の内側にとどまる不出来なものである。
この不出来なものは
しかしその潮吹きの徴の下に横たわる
基体(hypokeimenon)としてある。

この不出来な基体から鯨の噴水図形は上に出来する。
従って、牡羊座の符号が表現するのは上出来性であるといってもよい。

牡羊座はシュメール人に続く
セム系のカルデア(バビロニア)人たちの占星学で第一宮となった。
シュメール文明の時代には牡牛座が第一宮である。