言うまでもなく怪獣映画というものは愚劣なひどいものである。
 しかもゴジラはグロテスクで野蛮で凶悪、
 しかもこれほど愚鈍なものはほかにないといえるだろう。

 しかし、ゴジラは絶対的に非凡であり、
 何か有無をいわさぬ決定的な高貴さをもっている。
 この高貴さのなかには、人を畏怖させずにはおかない
 魅力的な力が宿っている。
 その腹の底を見通すことのできない〈黒いかがやき〉の
 ふしぎな魔力からゴジラはまっすぐに進み出てくる
 唯一の絶対的怪獣である。

 ゴジラは美しい。絶世の美女よりも遥かに美しい。
 その美しさは彼のかぎりもなくみにくい外貌を越えて
 わたしたちの心にまっすぐに届く。
 ゴジラは童心の〈黒いかがやき〉からやってくる
 最もすぐれたシンボルであり、
 〈黒いかがやき〉のふしぎさの本質を
 最も美しいかたちに結晶させた芸術的なものだからである。

 彼の出現するかぎりもなく愚劣なスクリーンの空間を引き裂いて、
 あの異様な存在は、
 映画の平板な虚構空間にはもはや回収不可能な溢れ出すものを与える。
 彼が破壊するのは映画のなかの都市だけではなく、
 彼が出現する映画それ自体が切り裂かれてしまうのだ。

 ゴジラとはこの映画の黒い裂け目である。
 愚鈍で愚劣きわまりないゴジラという
 グロテスクな生ける岩石から
 ふかしぎに伝わってくるのは〈知性〉である。
 ゴジラには〈知性〉が備わっている。
 そのことがわたしに衝撃を与える。
 みにくさを覆して知性と美がやってくる。

 この知性と美の故にゴジラは永遠に不死なるもの、
 何度映画が死なせても死なせることの不可能な、
 映画を越えて生き続ける驚くべき存在と化している。

 ゴジラを一度召喚してしまった映画は
 もう二度とそのふしぎな現存を取り消すことができない。

 映画はゴジラの背後で困惑する。
 ゴジラ映画はゴジラと映画の戦いの映画である。
 かぎりもなくみにくい戦いの映画である。

 ゴジラほど映画のなかにおさまりのわるい怪獣はいない。
 そのゴジラを何とかしてつかまえ、
 取り押さえようとありとあらゆるものがみにくく総動員される。
 単に新兵器だの新怪獣だのといったものだけではない。
 脚本のストーリー、カメラワーク、
 ゴジラにリアリティを与えてその神秘を剥ぎ取るための
 さまざまな疑似科学的屁理屈、
 大人たちのありとあらゆる知恵と知識と技術を総動員しても、
 暴れ回るゴジラを決して取り押さえることができない。

 確かに映画のストーリーのなかでは
 ゴジラは必ず撃退される運命にあるのだが、
 ゴジラは映画を完膚無きがまでに屈服させてしまう。
 ゴジラのもつこの不可思議な勝利には
 映画が絶対に映像の美学空間の檻のなかに
 閉じ込めることのできない溢れ出すものがある。

 ゴジラの全貌はそのみかけや
 怪獣図鑑に書かれている無意味な数字より以上に大きい。
 一瞥するだけでそのすべてを把握することはむずかしい。

 彼はわたしが〈黒いかがやき〉と呼ぶもののほんの一部を
 ほのみえさせてくれるだけの小さな存在に過ぎないが、
 その巨体にはらまれた神秘な力を解明するには
 なお多くの頁数を割かなければおぼつかない。
 その本論はいつかの機会に譲るにしても、
 ゴジラの細胞の一部くらいはここで解明しておく必要はある。

 怪獣映画の出来としてみるならば、
 例えば相前後して上映された(※この文章は1995年に書かれた)
 『ゴジラVSスペースゴジラ』と『ガメラ』を比較すると、
 あくまでもわたしの好みに過ぎないが、
 軍配はためらわず清々しい感動を与えてくれたガメラの方に
 よくやったと心から上げてやりたい。

 それにひきかえゴジラには落胆させられてしまった。
 前作『ゴジラVSメカゴジラ』の出来がよかっただけに、
 そのひどさは目を覆うばかりに無残である。

 無論見る前から
 今度の作品はどうもひどいものらしいということは分かっていたのだが、
 それでもわたしは金を払って劇場に出掛けていった。
 案の定、劇場から出て来たわたしはバカヤロウと悪態をつきたくなった。
 これでは大映と東宝が逆じゃないか。
 その悪態をここでこれ以上批評文へと展開することはしない。
 わたしは童心を失った怪獣オタクどもが心底嫌いなのだ。
 童心を養い新たにするためにわたしはゴジラに会いに出掛ける。
 白髪の老人になってもそれは変わらないだろう。
 だからその童心が子供一人騙せない大人たちの
 手垢にまみれたみにくい嘘に汚されると
 自分がゴジラになったみたいに腹が立つ。
 ゴジラになりきったわたしはむしゃくしゃして思う。
 俺様を誰だと思っている。
 俺はゴジラ様だぞ、ふざけるんじゃない。
 うすぎたない手垢なんかは
 あのお人よしのガメラの甲羅にでもなすりつけてやればいい。
 俺をガメラなんかと一緒にするな。
 絶対的にわがままな誇り高い俺様は
 おまえら大人共の嘘っぱちのいやらしい世界を憎む。
 こうしてわたしは放射能光線を吐き散らして世界を破壊したい気分になる。

 実はそこにこそゴジラ細胞の秘密がある。
 わたしはゴジラを見るとゴジラになってしまうのだ。
 ガメラでは決してそうはならない。
 そうなる人も無論いるだろうが、
 その人はガメラの甲羅のそらぞらしい欺瞞に深い意味を与えているのだ。

 これは怪獣映画の出来不出来によるのではない。
 映画とは切り離された、つまり純粋に抽象的な次元で、
 両者の怪獣としての出来不出来にかかわる問題である。

 しかし怪獣図鑑的な問題ではない。
 ゴジラとガメラはここで全く観念以外の何者でもないのである。
 そして観念として見るとき、
 わたしたちは怪獣の真の肉体にはじめて触れることになる。

 そのとき両者はきわめて深遠な、
 それぞれ違ったかたちで謎めいた不明瞭で気をそそる考察の対象となる。

 ところで、わたしは心理学と社会学というものを
 心から軽蔑しているということを
 ここで出し抜けだが表明しておく必要が生じた。
 そういう下らぬ学問に神聖な怪獣たちの体がいじくられるのは
 怪獣崇拝者であるわたしの永遠の童心が許さないのである。
 むしろそうした似非学問をふりまわすみにくい怪獣オタクどもこそ
 ゴジラに焼き払われ、ギャオスの餌にされてしまえばいいと
 願ってやまない。

 こういう奴らはわたしが〈白いかがやき〉と呼ぶ光の国からやってきた
 怪獣退治のチンケなウルトラマンどもに過ぎない。
 その安っぽいフラッシュビームでは
 不死のゴジラや増殖するギャオスの神秘を
 一瞬掻き消してみせることができるだけだ。
 三分間しか戦えぬインスタントラーメンみたいな
 即席のろくでなしのひとでなしには、
 〈黒いかがやき〉から到来するあのふかしぎな現前たちを
 決して調伏することはできない。

 TVのヒーローはどんなに巨大化したところで
 真の怪獣の手前に立つことすらできないだろう。
 ギャオスを倒せるのは負けても負けても立ち上がる
 傷だらけのガメラのあの不細工でかぎりもなくみにくい
 みじめったらしいドン亀の肉体だけである。

 弱く醜悪な卑劣な甲羅の鎧に
 身を守りながらでしか戦えないガメラの
 柔らかく傷つきやすい体には
 ギャオスのような本当の邪悪の化身と
 刺し違えても戦って打ち勝たねばならない崇高な美学的な根拠がある。
 その涙ぐましさは侮蔑に値するみにくいいやらしいものではあるが、
 無葛藤で軽薄な正義の味方の白けた体臭にはない奥深い香りがする。

 偽りと仮初の超人幻想のとってつけたような白いかがやきの無責任さは、
 ギャオスのような真の邪悪の発散するあのどうしようもないきつさ、
 凄まじい攻撃性を浴びただけでその化けの皮が剥がれてしまうのである。