イメージというものについて、モーリス・ブランショは〈死体〉という卓抜な比喩を導いて語った。
たしかに、イメージにイメージを与えるものとして、エドガー・アラン・ポーがくりかえしたちかえりテーマにしたような、死美人=眠りびとというふしぎでストレンジな形象ほど魅惑的なものはない。
眠りびとは彼女自身であると同時に何かしらふしぎな〈別人〉である。
わたしはここで〈他者〉ということばを使わない。
見知らぬその人、未知への変貌を遂げたその異なる顔立ちは、まるで別人のようではあっても、決して他者のようではないからだ。
わたしは眠りびとをまるで他人のようにして見るのではないし、よそよそしさのなかで捉えるのでもない。
赤の他人を眺めるのであれば、その一瞥には驚きはなく、奇蹟の不思議なきらめきに繋がるような如何なるワンダーもない。
〈他者〉と〈別人〉を混同することは、いつでも危険だ。
それは異なる次元を混同させ、そして思考を破滅的な混乱へと導く。
〈別人〉は〈他者〉を覆って拉し去り、その姿を見えなくする。愛するその人をすりかえて見慣れぬ観念に置き換え、魅惑と脅威をもたらす不吉な幻想に変えてしまう。
倫理や道徳がきわめて愚かしい躓きに陥り、善から悪を、そして悪から善を引き出してしまうのはこのときである。
〈他者〉が見失われるところに〈別人〉が現れる。〈他者〉を見いだしたと思っているとき、〈別人〉がそこにすりかわる。〈別人〉はいつも〈他者〉に変装するのだが、それはその人自身ではない。
〈別人〉のもとでいつも〈他者〉は消滅し、蒸発してしまっているのだ。そして人は、主体は、そのことを知らない。
こうして〈別人〉は〈他者〉のもとから主体を誘拐し、或いは主体を誘惑して、そのふしぎな暗闇へと連れ去ってしまう。〈他者〉との関係を狂わせ、奪い取る。
悪は何処から来るか――それは〈別人〉から来るのだといえる。では〈別人〉は何処から来るのか――恐らくそれは〈美〉からやってくる。しかしこの〈美〉はきわめてみにくいものである。
わたしは〈他者〉の問題をではなく、〈別人〉の問題を提起したい。
〈別人〉という奇妙な人物は、〈わたし〉或いは〈自己〉と〈他者〉或いは〈他人〉の間にいつも介在するのだが、それはいつも何故か看過されてきてしまっている。それはいつも〈他者〉或いは〈他人〉或いは〈他我〉の麗々しい名のもとに覆い隠されて、その姿がすっかり不可視になってしまった一種の透明人間である。
そこで次のように言い換えることができる。
〈別人〉が見失われるところに〈他者〉が現れる。〈別人〉を見いだしたと思っているとき、〈他者〉がそこにすりかわる。〈他者〉はいつも〈別人〉に変装するのだが、それは〈別人〉自体ではない。
〈他者〉のもとでいつも〈別人〉は消滅し、蒸発してしまっているのだ。そして人は、主体は、そのことを知らない。
こうして〈他者〉は〈別人〉のもとから主体を誘拐し、或いは主体を誘惑して、その平凡退屈な日常へと連れ去ってしまう。〈別人〉への警戒を曇らせ、鈍らせる。
常に表裏一体のものであるいかがわしい偽善とおめでたい痴呆は何処から来るか――それは〈他者〉から来るのだといえる。では〈他者〉は何処から来るのか――恐らくそれは〈醜悪〉からやってくる。しかしこの〈醜悪〉はきわめて小綺麗なものである。
〈わたし〉と〈他者〉の間に〈別人〉はいつも危険として伏在している。
いつもこの怪人は〈わたしたち〉の間にひっそりと無気味に立つ。それは〈悪魔〉とも〈虚無〉とも〈深淵〉とも呼ばれる、人間的な余りに人間的な〈神秘〉である。
〈別人〉は人と人の間に立つ。だとすれば、〈別人〉こそ一番〈人間〉と呼ばれるにふさわしいものである。
しかし、最も人間的な〈人間〉は血肉を欠き、魂を欠く。それは限りもなく虚無的で悪魔的なものである。
最も完全な〈人間〉とはこのように完全な〈人非人〉を意味する。それはかぎりもなくみにくくむなしい。
〈別人〉を見ることは辛く、それを認識することは苦い。
それを告げることばはビターなものである。
故に人はそれを語ることを躊躇い、〈別人〉は口のなかの重苦しい曖昧な秘密となる。
それは禁断の言葉となる。
秘密とはそれを語ることを慎ましく自戒しなければならない呪いと禁忌と金縛りの言葉、危険な言葉を意味する。
〈恥〉の観念、〈罪〉の観念がそこに生じる。
それは人間を不自由にする。
だが、わたしはこの不自由をきわめて不快なものだと感じる。そして不当なものだと考える。
わたしたちはいつも何故か無意識的に〈別人〉を〈他者〉と同一人物であると錯覚する傾向がある。
これはどうもわたしたちの近代的知性が陥りやすい愚鈍な習性のようである。この習性はわたしたちの文化的悪癖によって愚かにも更に強化されてしまっている。
〈別人〉に盲目であることは、〈他者〉についても盲目であることを、そして更に〈自己〉について、〈自分自身〉についても盲目であることをもたらす。
この三重の盲目のボロメアンの結ぼれは相互に不可分に結合しあって、深刻な事態をもたらす悪魔の三位一体を完成する。
故に〈別人論〉はいわば一種の、否、これこそ真の意味での〈悪魔学〉というべきものになるだろう。
〈神学〉は多くの意味でばかげた学問であるが、この〈悪魔学〉は真面目な意味でばかげた、つまり〈不条理〉な学問となるだろう。
たしかに、イメージにイメージを与えるものとして、エドガー・アラン・ポーがくりかえしたちかえりテーマにしたような、死美人=眠りびとというふしぎでストレンジな形象ほど魅惑的なものはない。
眠りびとは彼女自身であると同時に何かしらふしぎな〈別人〉である。
わたしはここで〈他者〉ということばを使わない。
見知らぬその人、未知への変貌を遂げたその異なる顔立ちは、まるで別人のようではあっても、決して他者のようではないからだ。
わたしは眠りびとをまるで他人のようにして見るのではないし、よそよそしさのなかで捉えるのでもない。
赤の他人を眺めるのであれば、その一瞥には驚きはなく、奇蹟の不思議なきらめきに繋がるような如何なるワンダーもない。
〈他者〉と〈別人〉を混同することは、いつでも危険だ。
それは異なる次元を混同させ、そして思考を破滅的な混乱へと導く。
〈別人〉は〈他者〉を覆って拉し去り、その姿を見えなくする。愛するその人をすりかえて見慣れぬ観念に置き換え、魅惑と脅威をもたらす不吉な幻想に変えてしまう。
倫理や道徳がきわめて愚かしい躓きに陥り、善から悪を、そして悪から善を引き出してしまうのはこのときである。
〈他者〉が見失われるところに〈別人〉が現れる。〈他者〉を見いだしたと思っているとき、〈別人〉がそこにすりかわる。〈別人〉はいつも〈他者〉に変装するのだが、それはその人自身ではない。
〈別人〉のもとでいつも〈他者〉は消滅し、蒸発してしまっているのだ。そして人は、主体は、そのことを知らない。
こうして〈別人〉は〈他者〉のもとから主体を誘拐し、或いは主体を誘惑して、そのふしぎな暗闇へと連れ去ってしまう。〈他者〉との関係を狂わせ、奪い取る。
悪は何処から来るか――それは〈別人〉から来るのだといえる。では〈別人〉は何処から来るのか――恐らくそれは〈美〉からやってくる。しかしこの〈美〉はきわめてみにくいものである。
わたしは〈他者〉の問題をではなく、〈別人〉の問題を提起したい。
〈別人〉という奇妙な人物は、〈わたし〉或いは〈自己〉と〈他者〉或いは〈他人〉の間にいつも介在するのだが、それはいつも何故か看過されてきてしまっている。それはいつも〈他者〉或いは〈他人〉或いは〈他我〉の麗々しい名のもとに覆い隠されて、その姿がすっかり不可視になってしまった一種の透明人間である。
そこで次のように言い換えることができる。
〈別人〉が見失われるところに〈他者〉が現れる。〈別人〉を見いだしたと思っているとき、〈他者〉がそこにすりかわる。〈他者〉はいつも〈別人〉に変装するのだが、それは〈別人〉自体ではない。
〈他者〉のもとでいつも〈別人〉は消滅し、蒸発してしまっているのだ。そして人は、主体は、そのことを知らない。
こうして〈他者〉は〈別人〉のもとから主体を誘拐し、或いは主体を誘惑して、その平凡退屈な日常へと連れ去ってしまう。〈別人〉への警戒を曇らせ、鈍らせる。
常に表裏一体のものであるいかがわしい偽善とおめでたい痴呆は何処から来るか――それは〈他者〉から来るのだといえる。では〈他者〉は何処から来るのか――恐らくそれは〈醜悪〉からやってくる。しかしこの〈醜悪〉はきわめて小綺麗なものである。
〈わたし〉と〈他者〉の間に〈別人〉はいつも危険として伏在している。
いつもこの怪人は〈わたしたち〉の間にひっそりと無気味に立つ。それは〈悪魔〉とも〈虚無〉とも〈深淵〉とも呼ばれる、人間的な余りに人間的な〈神秘〉である。
〈別人〉は人と人の間に立つ。だとすれば、〈別人〉こそ一番〈人間〉と呼ばれるにふさわしいものである。
しかし、最も人間的な〈人間〉は血肉を欠き、魂を欠く。それは限りもなく虚無的で悪魔的なものである。
最も完全な〈人間〉とはこのように完全な〈人非人〉を意味する。それはかぎりもなくみにくくむなしい。
〈別人〉を見ることは辛く、それを認識することは苦い。
それを告げることばはビターなものである。
故に人はそれを語ることを躊躇い、〈別人〉は口のなかの重苦しい曖昧な秘密となる。
それは禁断の言葉となる。
秘密とはそれを語ることを慎ましく自戒しなければならない呪いと禁忌と金縛りの言葉、危険な言葉を意味する。
〈恥〉の観念、〈罪〉の観念がそこに生じる。
それは人間を不自由にする。
だが、わたしはこの不自由をきわめて不快なものだと感じる。そして不当なものだと考える。
わたしたちはいつも何故か無意識的に〈別人〉を〈他者〉と同一人物であると錯覚する傾向がある。
これはどうもわたしたちの近代的知性が陥りやすい愚鈍な習性のようである。この習性はわたしたちの文化的悪癖によって愚かにも更に強化されてしまっている。
〈別人〉に盲目であることは、〈他者〉についても盲目であることを、そして更に〈自己〉について、〈自分自身〉についても盲目であることをもたらす。
この三重の盲目のボロメアンの結ぼれは相互に不可分に結合しあって、深刻な事態をもたらす悪魔の三位一体を完成する。
故に〈別人論〉はいわば一種の、否、これこそ真の意味での〈悪魔学〉というべきものになるだろう。
〈神学〉は多くの意味でばかげた学問であるが、この〈悪魔学〉は真面目な意味でばかげた、つまり〈不条理〉な学問となるだろう。