Noli Me Tangere 1994年版(未完)より [冒頭]
第三章 蒼蝿の王 3-3 神の左手、女神の右手

[承前]


 《ρ》と《λ》をラ行の回りでグルグル回し、ララララと歌うのは何と愉しいこと。


 あるいはよりヘブライ風に《レシュ》と《ラメド》、またはラテン風には《R》と《L》を、この《右(R)》と《左(L)》をグルグルと入れ替えるこの回転遊びのなかで、主神の顔がクルクルと入れ替わる。その都度、風景が一変するのを眺めるのは愉しい。


 わたしはまるで恐れ多くも神その人をからかうように、また宇宙を弄ぶように神話の天球儀を回す。
 それにつれて地球儀も回る。ふたつは天の御柱によって結ばれているから。
 この中軸だけは殆ど微かにしか揺らがず、わたしのこの不思議な遊戯を支えていてくれる。


 右回り――ひょっとすればそれが正しい(Right)回転方向なのかもしれない――に宇宙を回転させれば、現れるのは月の女神アルテミスの風景。
 アルテミスは右回りに御柱を回ってギリシャ神話の夜空を広げる。
 彼女を照らすのは双子の兄――きっと遠い昔には彼女の息子であったに違いない忠実な太陽神のアポロン。彼女の大いなるエフェソスの神殿のもとに、聖母マリアとマグダラのマリアの二人は共に暮らした。それはイエスの復活後の話。


 左回りに回すと、アルテミスは姿を消し、厳しい男神、父なるヤハウェの砂漠が広がる。
 父と子と聖霊の三位一体の御名を唱える僧侶たちの世界。彼らは世界の荒涼とした終末の到来を告げる。
 砂漠の神はまさに裁く神だ。その裁きはまるで砂のように苦い。
 アルテミスもまたヤハウェに劣らず、ことによればそれ以上に厳しく底恐ろしい――何よりその血なまぐささは女神ならではのものだ――けれども、ヤハウェの齎すこの乾き切った寂しい荒廃の風景にはもっと別の凄まじい苦悩がある。


 何よりも何という孤独、何という寂しさであることか。
 多神教の神々の消えうせてしまった砂漠に君臨するこの孤独な王権には夢を語る余地もない。
 ギリシャの神々の恋物語の這いいる隙間もないくらい、この神の王国の扉は固く自らを閉ざしてしまっている。


 左回りに現れるLの世界。L――《神〔エル〕》の世界。
 まるで病める者のように暗く、黒服の僧侶と神学者たちの積み重ねたドグマの、厖大な文書類〔ドキュメント〕と注釈〔コメンタリー〕の黒い山に、重苦しい黒い墓碑の石板〔ステーレー〕に押し潰されるようにして。


 文書類〔ドキュメント〕?――いやこれは全く犬のマント〔ドッグマント〕だ。
 男どもは屍骸に群がる犬のように、病み衰えた神の周囲に群がり、粗暴な男の声、まるで犬どもの吠えるような声で口々にドグマを吠え立てる。


 犬のマントの内側に隠されて、病める神その人は犬どもの吐く男臭い息のために殆ど窒息しかけているのではないだろうか。


 左(L)の世界は、真にしかし《神》(エル)の世界であるのだろうか。
 見えるのは《犬(dog)》の背中ばかりではないだろうか。
 確かに《犬》をその背中から読むとすれば、《神》はそこにいるということにはなるだろう。
 DOG→GODという文字謎〔アナグラム〕によって。


 しかし、それもまた《犬》の教条であるドグマに過ぎぬのではなかろうか。
 寧ろ、《犬》とは《居ぬ》ということを暗に告げているのではないだろうか。
 左(Left)の世界とは、寧ろ神に去られ見捨てられた(left by the God)世界なのではないだろうか。
 
 また、《GOD》の語によって犬の陰から暗示される男神は、本当に神(AL(エル〕)であるだろうか。
 《L〔エル〕》の世界にありながら、何故、その人は《彼》(il)と呼ばれて、《彼女》(elle)とは呼ばれえないのか。


 もし《神》がそこに《イル》の名に於いて《いる》のだとしても、それは《神は男だ》というドグマによって病い(illness)の床についているのではあるまいか。


  *  *  *


 わたしは、犬どものドグマに対し、彼らの宗教裁判〔オートダフェ〕を守った古臭いスローガンに対して、《L》をめぐるわたしの《謎》を(そしてこの《謎》――エニグマという語をラテン語に溯ってみるならば、そこには《風刺》という意味も付け加わっているのだが)仕掛けるために、諸国語の境界線を敢えて不当に侵犯し続ける。
 法の網の目をくぐり抜ける違法の魔女術を弄ぶペイガン(異教徒/ジプシー)として。正当な通行許可証を提示せずに。


 それ故にわたしはバベル(言語の混乱)の大淫婦と見なされ、犬――常にそれは権力の犬である――に追われるだろう。
 だが、これがわたしの犬どもとの戦い方なのだ。言語の混乱の淫らな乱用こそが。


 言語の国境で常に身許国籍を明らかにすべく要求される合言葉シボレート――「麦の穂」「オリーブの小枝」「川」「大河」「流れ」を意味するこの古いヘブライ語の頭文字の《シン(Щ)》の発音を《シ》と正しく発音できず、《スィ》つまり《サメク(S)》の音で「スィボレート」というふうに、エフライム訛りで発音した者をヨルダンの渡し場で殺させたという一種の音声による踏絵の記事が旧約聖書『士師記』12章に出てくる。
 それはかつてアモン人に勝利し、不運な誓願のためにたったひとりの愛娘を主への全焼の生贄に捧げねばならなくなったギルアデの悲劇の勇者エフタの行ったこと。
 ヨルダン川は四万二千人のエフライム人の血で赤く染まった。


 この故事から、シボレートは西洋各国語で、党派・信仰・国籍を見破るための合言葉・ためし言葉を、また、更に転じて、党派などの今では古臭くなったスローガン・主義・慣習を意味する語になった。


 わたしはこのシボレート――そこでも《シン(Щ)》と《サメク(S)》という、《L》と《R》の場合と同じく発音の紛らわしい二つの音/文字が問題になっているのだが――に、そもそもの初めから既に逆らいながらこの思考を進めてきたのだ。
 各国語への不法侵入は逮捕せられるべきものか。
 にもかかわらず、人の声は常に国境を越えて、どの国にも属さぬ神の秘密を諸説混交のバベルの響きのなかに、奇妙な《暗合》のなかに捜し求めるものなのだ。


 わたしはこの迷信のエニグマによってドグマの国境を壊乱し続けよう。
 犬どものシボレートには、それを古ぼけたスローガンとして突き返すことにしよう。
 わたしの思考は寧ろ魔女の思考であり、語学と辞典の犬、国家おかかえの宗教裁判所の犬の思考ではない。


 寧ろわたしはタロットに頼ろう。
 国境を越える流浪の民がそれだけを携えていたというこの不可思議であやしげなトートの書こそわたしの辞書となるだろう。